岩波新書の吉田洋一の名著「零の発見」を意識した養老先生の著作に、ちくま新書の「無思想の発見」がある。日本人は無宗教・無思想・無哲学だと言われる。ならばと養老先生は、日本には「無思想という思想がある」と開き直った。
ゼロには二つの意味がある。一つは数字としてのゼロである。他方ゼロは数量が空っぽ(何もない状態)ということも意味している。そこで養老先生は「無思想」とは「思想についてのゼロ」だと考えた。つまり、「無思想という思想」はそれ自体が一つの思想であるとともに「とりあえずそこには思想はない」ということを同時に意味している。
かくして養老節が炸裂する。「俺は思想なんて持ってない」という思想は欠点が見えにくい思想である。そもそもそれを「思想だなどと夢にも思ってない」んだから、訂正する必要もないし、それについて他人の批判を聞き入れる必要もない。歴史的に日本の急速な近代化が可能だったについては、この省エネ思想が与って力があった。「思想なんかない」そう思っていれば臨機応変、必要なときには必要な手が打てる。昨日まで鬼畜米英、一億玉砕であっても、今日からは民主主義、反米なんか非国民、マッカーサー万歳という具合である。
養老語録によく「相互に補完しあう」が出てくる。意識と無意識や概念世界(思想)と感覚世界(現実)などである。「言葉に表現されなければ思想ではない」それはもっともだが、それをいうのは欧米社会である。「思想なんかない」という原理は言葉による思想を抑圧する。それなら思想表現は、言語以外の他のさまざまな形をとるしかない。禅には不立文字(真の教えは言葉ではなく心で伝えられる)という教えがある。とりあえず思想がないと、それを補完するものとしての現実が発生する。思想と現実(世間)は補完しあう。