ART&CRAFT forum

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「草色の炎」  榛葉莟子

2017-08-01 14:31:25 | 榛葉莟子
2006年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 40号に掲載した記事を改めて下記します。

「草色の炎」  榛葉莟子

 明け方激しい雨音に起こされる。久しく雨音を聞いていなかったせいか突然目覚ましのベルが鳴り響いたかのように目が覚めた。昨日まで雨雲ならず雪雲に覆われた空からひらひら白いものが舞ってきて、しんしん降り続く雪の日の静かな季節は冬だったのだから。今朝の雨音は気温の上昇をはっきり証明している音だ。流れる水の音に角がなくなっているなと聞こえたその感じは気のせいでもないようだし、川をのぞけば柔らかに重なる透き通った水の起伏がとろり流れていく。耳をすませばプチュプチュプチュ足下からの土のつぶやきも聞こえてくる。霜柱が溶け始めたのだ。あたりを見渡せば全体に茶色がかった冬枯れの田園風景の中、魔法の杖のひとふりのように突然出現したかの印象を受ける草色に染まった畑に驚く。なつかしいような草色、それはいっせいに芽吹いた麦畑だ。そこに点々と黒いものが動いているのは鴉だろうか。一反の畑の草色は鴉にとっては草原であろうし久しぶりの草の匂いだろう。草色の炎と呼んでみたい生命の膨らみ。其処何処からのぞいている新しい春の到来の合図と眼が合えば、身体のどこかでも草色の炎はぽっと点って、なつかしくっていい匂いが身体の内を循環し始める。

 そういえば二十数年地方に暮らしているとはいえ、この世に生まれてひと所に二十数年はこの場所だけだとふと数えた。けれども定住の感覚はいまだに私にはない。借家だからというよりも借家でなければならないようなところもあるのは、感覚的には仮住まいの風通しの良さを望んでいるところがあるからとも思っている。定住という言葉のイメージには束縛の匂いを嗅いでしまう。そういえば先日、顔見知りのおばあさんに「こたつがあるのかい?」と聞かれた。「いいえ、ストーブだけなんですよ。こたつは大好きですけれど、大好きだからあえて置かないんです」と言うと「そうかい」で話は終わってしまったけれど通じていなかったようだ。こたつに入ったら最後動かなくなる自分の弱さを知っている。多分誰もがそのぬくぬくとした誘惑に負けると思う。故に、快適からは出来るだけ遠ざかるに限るのだ。定住とこたつがどう関係するのかといえば、安定、定着、完成、満足、安心等々、比喩としてそれらもぬくぬくの快適なこたつなのだ。ご用心ご用心。それにしても定住感覚の希薄な性分は青臭くなんという無器用者の生き方かとも思う。胸の内のどこかにはいつも宙ぶらりんの不安定がいて、あえてそれを望みそれが私を次の意欲に駆り立てるのは本当で、見つけた場所に執着することなく、再び始まる合図あの点火の瞬間の感覚をじっと待っている精神的な欲張りだから、いつまでも内的旅は終わらないということになる。何かが始まるぞというわくわくするする再開の感覚の中身は、不安がほとんどの矛盾だらけの開始の合図であって不安のないわくわくなどありえない。個展が予定されていればそこへの集中は日々意識される。そして必ず襲われる絶望的な不安とわくわくの葛藤。そこからの開始。

 この頃は、殻を破るとか脱皮などの言い回しは通じるのだろうか。ふと思い出すずっと以前、うなだれる日々があった。そんなある日の経験がある。薄暗い神社の木立ちを抜けるとぱっと明るい日差しの農道に出る。勝手知ったるいつもの散歩道の両脇には田畑が広がる。いつものそこに、その時はいつもとちがう感覚が湧き出た。見慣れたいつもの風景が木は木として道は道として、それぞれがくっきりとひかり輝きながら自分も共に連なって溶け合う世界を見たように感じ、そして神々しく輝く風景の中で沸沸とこみあげ膨らんでくる歓びとしか言いようのないうれしさに立ちすくみ戸惑った。戸惑うそれは、心の内によろこびとは対極に現実的な難しい心配事の解決策に苦悩する日々を数年来抱えていた。こんなに苦しいのに、こんなに歓びを感じている矛盾する私とはなんという奴だとさえ疑った。いみじくも苦しみが歓びに転じた不思議な経験は、この生の途上の薄皮の脱皮の段階のひとつにすぎないが、苦悩と歓びは表裏一体のひとつとしてあるということを教えられた。

 段階とか脱皮とか。なんて地味な言葉だろう。けれどもほんの少しずつの変化が心に積もって、ふとふりかえると一つの脱皮が一つの段階をくぐり抜けているのではないだろうか。地味な言葉の中身ほど案外豊かな世界が詰まっている。質問ばかりする新入りの子猫が家にいる。why?why?を繰り返し私は質問責めにあっている。ふんふんと想像しては作り話で答えたりしている。たまには自分で考えなさいと叱ったりもする。自分に質問ばかりしている飼い主に似たのかもしれないが、質問つまり自分に問題をださなければ思索は深まらないから自分に質問するのはおもしろい事なのだ。問題そのものの中に答えが潜んでいるともいう。