2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。
「円は閉じない」 榛葉莟子
騒がしく小鳥たちが鳴いている。たて続けに鳴いている声はのどかなさえずりではない。小鳥たちだって何事かの訳あって喧嘩もするし奪い合いもする。やってるやってると窓の外に眼をやれば案の定、紅葉の小枝の一部が揺れて乾きはじめたあかい葉がひらひら舞っている。いったい何をしているのかと、時には骨董めいた双眼鏡をのぞくのだけれどもいまだ感動の焦点の目盛りに間に合ったことはない。けれども耳に聞く小鳥の声のさまざまに感動するという事はよくある。たとえば夕暮れ時、近くの竹藪に雀の大家族が帰ってきた時の鳴き声の合唱はすごい。そのざーっと落ちる滝の水音のごとくのすごさはほんの一時で、さあ眠りましょうとばかりにぱたっと竹藪は嘘のように静かになるあっけなさは拍子抜けする。朝方ちゅんちゅん小鳥の声に起こされることはあっても、夜に起きているのは神社の暗闇の方から聞こえてくるほーほーというふくろうの声くらいのもので、みんな小鳥たちは陽の暮れとともに眠りにつくはずだ。ところがある夜、けたたましく鳴く鳥の声が近くに聞こえた。それは鴉とすぐわかる声で何羽位だろうか尋常ではない鳴き声だった。奪い合いでもない喧嘩でもない、なにかが起きてるそんなことを思わせるあわて振りの激しさに、どうしたのだろうと耳をそばだて暗闇ばかりの方向に眼を見開いてみても見えるはずもない。一時間くらいそれは続いただろうか。ぴたり鳴く声は止んだ。そして翌朝早く激しく鳴く一羽の鴉の声に起こされた。昨夜と同じ鴉の声は、あきらめ切れないかのように激しく鳴き続けていたけれどまもなく静かになった。あれは鴉のお母さんだ。そう思った。こどもが木から落ちたのではないか。きっとそうだ。その時そう思った。確かめに向かった眼の先の道に小さな黒いものがしんと横たわっていた。やっぱりそうだった。どうすることもできずに激しく鳴き、呼び続けていた夜の鴉の家族。あきらめきれずに鳴き、泣き、呼び続けた早朝の母鴉を更に思えば胸が詰まる。放ってもおけず袋に入れた。然るべきことの間中、鴉のお母さんの視線を感じていたのは気のせいだろうか。尋常ではない事が起きれば鴉だって眠れない夜があるのだという事実の奥にみる共通の生のせつなさか。
大なり小なり抱えている問題や葛藤が時には睡眠をじゃまするなんて事もよくある話で、眠れぬ夜など珍しいことではない。電灯が消えた暗闇の床の中、風が庭の落ち葉を掻き集めている乾いた音が夜の静けさをいっそう濃くする。たとえばこの暗闇の床の中でさめざめと泣く事もできるし、闇のなかに感じる気配と無言の対話もできるし、そこには自由な選択がある。変な言い方かもしれないけれども生きている途上途上に、岐路は常に立ちはだかりその選択の自由はまかされている。たとえば私は脱皮を重ね続けていたい方を選択し続けているにすぎない。それは閉じない円でありずれていく円のイメージの図が動かしがたくあり、私を引っ張り続けているようにも思う。円は閉じてはいけないのだ。そう感じるのは生命のふくらみというものの企みなのかもしれないし、私たちは案外その企みの軌道に乗っかって現在をはばたいているのかもしれない。そしてそのはばたきのなか、さまざまな思想と出会ったりぶつかったりする。たとえば、久しぶりに電話で話をしていた画家の友が「何も悩みはない」と得意気に言い放ったのを聞いてえっ?と絶句したり、また別のものつくりの知人は会話の中で、「私には恥の概念はないのよ」と誇らしげに言ったのを聞いたとたん、私の内でくっと円が閉じる拒否反応の音がしたりする。悩みも恥もからめ、まるごと生身を生きている私には言い切ることは定義付けという糊付けを自らにしてしまったような逆にもったいなさを感じる。いまだ開かずの扉を発見し続けたい現在進行形の自分にとって、それらの問題にぶつかるごとにそれは対話に向かう切り口、つまりは想像し創造し開き広がっていく原点ともなる。もったいないは眼に見える物をいとおしむ節約ばかりでないのは言うまでもなく、もって生まれた精神的な力、生命力を引き出すのにも円は閉じないというイメージがある。
秋も深まりと言いたいところだけれど、ちっとも話題にならないあることが気になる。夏の終わりから秋にかけて一日中、草むらや部屋の片隅から聞こえているはずの虫の独唱、輪唱、合唱を聞いてない。ふと気がつくとすでに晩秋に入っている。ほとんど虫の鳴く声を聞かないままもう霜が降り、草は枯れてすでに冷たい風が吹き始め、冬の活字が眼につくこの頃だ。秋の虫たちはどこに行ってしまったのだろう。天変地異。そんな言葉さえ口にしても奇妙とは思えないニユースはひっきりなしだ。思い出したのだけれど、普通に口ずさむ子守歌をうけつけない赤ちゃんがいるという事に驚きなぜたろうと不審だった。つけっぱなしのテレビに子守をさせる現実があり、テレビから流れる売らんかなのコマーシャルサウンドの中には、短調のメロディがひとつもないという。悲しみの感情、悲しみの旋律を耳にせず知らないままに赤ちゃんから情緒の芽は摘みとられていくのだろうか。