ART&CRAFT forum

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『不思議キルト』 道正千晶

2017-08-18 13:38:59 | 道正千晶
◆ 道正千晶“CHERRY BLOSSOM”2006年 ARTEXTURE(仏、独巡回中)
撮影:KOBE
 
◆“CHERRY BLOSSOM”(部分)  撮影:KOBE

◆“朝もやの中で” THE LIGHT IN THE MORNINGMIST 1989年  H 220× W 180 cm
花の博覧会国際公募キルト展(米巡回展)
撮影:SEKIGUCHI

◆“砂漠-時の移ろい” DESERT THE PASSAGE OF TIME  H 220× W 190 cm
1990年   
撮影:SEKIGUCHI


◆“警鐘”METALIKA 1993年 パシフィックオーシャンキルト展  H 210× W 175 cm
撮影:SEKIGUCHI

◆“風を感じる”CATCHING THE AIR 1999年  H 180× W 150 cm
キルトウィーク横浜
撮影:DAISUKE.A

◆“桜幻想Ⅰ” ILLUSION CHERRY BLOSSOM  2000年  H 200× W 200 cm
撮影:DAISUKE.A 
名古屋キルトフェルティバル

◆“きらめきⅡ” TWINCLE Ⅱ 2000年 キルト日本展  H 213× W 189 cm
撮影:DAISUKE.A

◆“泡 Ⅱ” BUBBLE Ⅱ 2005年  H 211× W 173 cm
撮影:KOBE
キルトナショナル2005(米巡回中)

◆“炎 Ⅱ” ILLUSION FLAME Ⅱ 2002年  H 200× W 185 cm
撮影:DAISUKE.A 
NHK国際キルトフェルティバル

2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

 『不思議キルト』 道正千晶

 私が物を作りたいと思ったのは、いつの頃からだったろう。
あまり記憶は無いが、小学校に入学する前から母の横でいつも何かを作ろうとしていた様に思う。糸と布はいつも身近にあった。そういえば小学校の頃、紙袋作りにはまった時期があった。当時は買い物をすると、新聞紙に包んでくれるか、薄い紙袋や新聞紙で作った袋に入れてくれた。私は、お店屋さんごっこをする紙袋が欲しかった。新聞紙を小さく切って、のりしろを付け貼り合わせ、袋を作る。教わったわけでも誰かと一緒に作るわけでもなく、色々な大きさの紙袋を何十枚、何百枚と作った記憶がある。ただ、作ることが面白く毎日ひたすら作っていたような気がする。Y
 30年ほど前のある日、小さな本屋でハードカバーのきれいな本を見つけた。それはパッチワークの本だった。ベッドカバーがとても素敵で、作りたいと思った。今思うと、基本の4角つなぎだったのだが、本を読んだだけでは難しく、初めて挫折し、そのまま、忘れてしまった。

 20年程前、私は下の娘が幼稚園に入ると同時に、何か始めようと思い、条件に合う物を探しているうち、パッチワークスクールの広告をみつけ、これなら良いかな、程度で入学を決めた。いざ始めて見ると、やった事のある人ばかりで用語も解らない、作り方もわからない、それが私のやる気と好奇心に火を付けて、のめり込んでいくことになったのである。
 自由な考えの先生の影響もあったように思うが、キルトの世界は、自由で間口が広く、一つを追っていくと奥が深く、新鮮だった。プロになろうと、洋裁を専門的に勉強した後だったので、縫うことは苦ではなく、自分でアレンジしていくことが面白かった。

 3年目に入る頃、スクールで教えてみないか、とお話をいただいた。それは初めてのクリエィティブキルトを創り始めた時期でもあった。全く何もないところからデザインをし、布を選び、キルティングラインを描く。ただ楽しかった。そのキルト「朝もやの光の中で」(1989年)は、初めて「花の万博国際キルト公募展」というコンペに応募し入選した。信じられなかった。自分でも頑張れば自分を表現する事が出来るのだと、この時初めて自分の物創りを意識したのかもしれない。しかし、まだこの作品は、他のアーティストのアイディアを少しずつもらって、継ぎ接ぎしたような作品だったように思う。

 5年ほどスクールで教えた後、行き詰まっていた私は美術大学の通信教育でもう一度学ぶ事にした。心身共に疲れ果てていた時期でもあり、私にとって逃げ出したいほど辛い授業でもあったが、それもまた楽しかった。漠然とした疑問や勉強の仕方などが見えてきて、これが自分の世界を強く持つきっかけになったように思う。人生でこんなにも勉強したのは、最初で最後かも知れない。スクーリングの終わりと共にパッチワークスクールも辞め、本当の意味でフリーになった。卒業後、テキスタイルの先生により発表の場を与えられ、ここでも自分の未熟さを痛感し、勉強に限りが無いことを教えられた。こうしてテキスタイル、ファイバーアートと出会うことになったのである。同時に、40年近く前に写真の道に進みたかった私は、グループ展の作品の写真撮影に失敗したことをきっかけに、数十年ぶりに真剣に写真とも向きあうこととなる。作品の写真を、「作品」として自分で撮りたい、そんな思いが封印していた心を目覚めさせた。先生との出会いを始め、同じ方向を向いた友人達との出会い、人生には大切な出会いがある。それが、自分をこんなにも育ててくれていることを、心から感謝している。
 
 私は制作に入るとき、まずテーマを考える。それが決まるとそのイメージの中に入っていく。私の頭の中で俯瞰から物を見ることが始まる。空の中で風に乗り、花びらとなり、光となって私自身が空に舞う。色達が私を取り巻き、あふれ、輝き、光が私を包む。花の形から花びらは次第に離れて空に舞いながら形を変え、それは体の中にある不定型な形になり、やがて制作出来る具体的な形へと変化してゆく。その形は、素材へと見え方を変えながら、テクニックへとつながっていく。映像の様にはっきりと見える物を頭の中に描き、同時に音や光や陽炎の様な見えない物をも見ながら、一つの画面へと具体化していく。この時の私は、イメージの空間にありながら、もっとも自由で真実の自分自身でいられるのかも知れない。素材、テクニックに変化した頭の中の作品は、制作図という目に見える物に変換させられる。それから初めて実際の制作という作業に進むのである。

 最近の作品は、ダイレクトアップリケという、普通のキルトの制作手順とはかなり違う方法で制作している。裏布に接着綿を貼り、裁ち切りで裁った布を重ね、沢山のピンで仮止めし、ミシンで直接止め付けながらキルティングしていく。その上に、糸や布、紙などを更に載せて止めたり、形を変形させて異形なキルトを創ったりしている。最初は輸入プリントといわれるパッチワーク用木綿の布を使っていた。そのうち服地を使い始め、素材の違い(毛、絹、木綿、化繊)や性質の違い(縮む、伸びる、厚い、薄い等)が面白くなってきた。「朝もやの光の中で」(1989年)は、輸入プリント、ハーブ染めの布、「布」のオリジナルの楊柳の様な生地、ウールの絨毯用のロープや化繊の透ける生地を使っている。
 砂漠シリーズ「砂漠 時の移ろい」(1990年)を作る頃から、私の布の興味はインドの布に変わってきた。その夏、作品の上にのって、1日中しつけをかけていた時、汗をかかない事に気づいた。インドでは男性の下着に使うという綿の手紬風の糸でざっくりと織られた風合いの布だった。布には出身地があるのだ。作られた土地の性質をそのまま持っているのだ、と驚かせられた。砂漠シリーズを作り続けているうち、砂漠に行ったことも無いのに作ることが嘘に思えてきた。しばらく、制作は休もう。

 その頃、テキスタイルの卒業制作、「風を感じる」(1999年)でインドの薄い布を使い、植物を方眼紙で描く幾何学的なデザインで作るという、今までとは全く違う方法での制作を始めたことから、風を感じる作品を作りたいと思うようになったが、風をテーマにしてから、光も表現に加わらざるおえなくなってきた。

 本当の風との出会いが私のキルトの制作を真実に向かわせたように思う。それは、2000年の「桜」の始まりでもあった。風は姿を変え、光になり、桜になった。同時に、体の中にある日本の湿気感覚(DNA?)とインドの布のドライ感に少々違和感を覚えていたこともあり、布もインドの布から日本の古い着物の生地に変わっていった。母や叔母たちから譲り受けたものから始まり、骨董市や骨董屋で購入するようになった。
 布は、私にとって初めて意味を持ったのである。
 それらの着物は、生きてきた人たちの生活や、性格、時代、生き方、職業等、私に話しかけてくる。着物は、大切に扱われ、身につけられて来た。着物を、1枚ずつほどく。縫われた糸も、1㎝ほどの柄の変化に合わせて色糸を変えてある物、糸だけ新しい物、繊細なもの、粗雑な物、中には白い絹の着物を赤い太い綿糸で縫ってある物さえあるのだから。
 帯の中身も上質の帯芯が入っている物、真綿で丁寧に包んであるもの、ぼろになった着物をほどきリサイクルして芯にしている物、手ぬぐいや旗などを応用してある物、紙が入っている物など、時代や生活、性格などが、手に取るように語りかけてくる。それらの布と話をしながら、再生していく最近の作品は、布を作った人、それを着た人、それをほどいて作品にしている私との時代を超えたコラボレーションのような気がする。そこには、新しい布とは築けない何かがあるように思えるのである。

 「桜幻想Ⅰ 桜想」(2000年)からの、桜シリーズは桜に感じる華やかさ、哀れ、情念、強さ、はかなさ、そして悲しみを表現したいと、思った。花びらが風に載って自由になる。
風、光、桜が私の心と一緒になった。同時に、赤との出会いが始まる。赤は、心の色、血の色、命そのものであるように輝き私を訪れた。桜シリーズを作り続けているうち、桜は形を変え、花びらは色を変え始めた。それは、今炎になろうとしている。
 まだまだ、進化し始めたばかりである。何時、何処に行き着くか、私にもわからない。それは、またこれからの楽しみでもある。
 昨年、キルトを始めたときからの夢だったアメリカの「キルトナショナル」というコンペに初めて入選し、秋にはフランスの「ARTEXTURE」にも入選した。

 表現方法として、何故キルトを選んだのか。キルトに出会ったのは偶然に過ぎなかったかもしれない。表布、中(綿)、裏布の3層を縫い合わせれば基本的にキルトなのである。私は、綿が好きだ。中に綿を挟みキルティングすると、フワフワとした暖かみのある手触りになり、陰影がでる。布の持つ優しさ、綿のもつ柔らかさが心にフィットし作品に表れる。だから、キルトに魅せられるのであろう。そして、私が今表現したい私の世界に一番自然であるのだ。

 物創りは、自分自身の意識、段階、スキル、知識、発想、発表
の場、とほんの少しずつの積み重ねと進歩が必要だと、最近しみじみ思う。作品を制作し痛感するのは、私には1歩ずつしか進めないのだ、ということ。でも、1歩ずつでも進めるということ(半歩の時もあるが、)が、今の私にはとても大切な事だと思う。  
 今、何が本当に創りたいのか?そこで、気が付いたのはがんじがらめにしていた自分自身だった。キルトであろうが無かろうが、使いたいテクニックがキルトならキルトで良い。画を描きたければ描けば良い、写真を撮りたければ写真でも良い、糸と布で立体にしたければしてみれば良い。    
 今自分が何を表現したいのか、何を使いたいのか?いかに、自分を自分で解放できるか、それによって制作すれば良いのだ。いつか、これらは一つになって行くだろう。真っ直ぐにより正直に、そして真正面から作品に向きあいたい。説明はいらないように思う。作品を見て、私の思いを受け止めて欲しい。私の心を、感じて欲しい。そんな思いで制作している。