2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。
「ときめきに出会う」 榛葉莟子
一天にわかに掻き曇り、見上げた空にはもくもく黒雲がわきでている。今しも大粒の雨が落ちてくる気配に一緒に歩いていた知人と顔を見合わせた。来るよ来るよ急ごうっと帰り道を走った。家に着くとまもなくパラパラパラパラ其処いら中にぶつかるようなすさまじい音が始まった。驚いた事にバケツをひっくり返したようなものすごい量の霰(あられ)が勢いよく降ってきたのだ。何事かと猫まで走って出てきた。白色不透明の小さな氷の玉の大群が、緑の地に勢いよく飛び跳ねて四方八方に転がる光景に魅とれた。足もとに転がってきた一粒の氷の玉を透かしてみれば汚れた白さの輝きを見る。みぞれにまじって降る霰や雹(ひょう)は経験済だけれども、大量の氷の霰だけが降り続く現場に出くわしたのは初めてだった。あっけにとられたまま降りしきる霰の大群を眺めていたあのファンタジーな数十分は、天のいたずらだったかのようにもうしとしと雨が降りはじめ、静けさの向こうからカッコウのなく声が聞こえていた。
こんな機会に霰の漢字を辞書で確認できたのだけれどそのついでにおもしろくもあるし感心したのは、おかきのあられは言うに及ばず、降る霰の様子に似せたあるいは偶然似た霰状の模様や姿かたちを呼ぶのに、霰を頭につけた途端説明や意味を超えた洒落た匂いが漂って来てぱっと感覚を刺激する比喩のうまさ。たとえば霰石、霰絣、霰釜、霰粥、霰小紋、霰酒、霰星等々さまざまな言葉の創造、感覚的とらえ方の日本語の表現にいまさらながらほれぼれする。たかがあられ、されどあられでぜひ辞書の霰の頁を開いてみてとすすめてしまいたい。なるほどなあと前頭葉の新しい豆電球がぽっと灯ったりする。
そういえば筋肉なんかよりずっと変形自在でいくらでも鍛えられるのが前頭葉だそうだ。創造とか判断とか知性的とされる活動にことごとく関わっていてヒトが人でいられるための中心だという。便利に呪縛されている事に気づかず使われなくなった器官は退化するというのが生き物である故の宿命だという。で、どうなるかといえばヒトは歩き出す前の状態に戻ってしまいヒトが人らしくなくなるという。実際ヒトが人でなくなっているとしか思えない事件が次々起きている事とつながってしまう。それにしても私たちものづくりは直線的便利さよりも、曲がりくねっためんどくささの道中にこそ詰まっている充実を当然のように知っている。物事を簡単に見るのは自分の眼を曇らせ、たいくつを呼び寄せるだけだということも知っている。故に私たちの前頭葉は日々鍛えられているということになるのだよと自分の前頭葉に言い聞かせる。
それにしても不安定な空模様が続く。新緑から濃い緑に染まり始め満開のツツジの赤がおひさまの変わりのように明るい。けれども田植えするお年寄りの素足は冷たそうで、ツツジの花の熱くらいでは素足の水は冷たいままだ。そこへ氷の霰とは…と、梅雨寒とはいえ油断ならない寒さについつい天をにらんでもはじまらない。歩いたりしていれば野良仕事のおじいさんやおばあさんと挨拶したり立ち話はよくあることで大体はそれだけのいっときの事だけれども、先日の出会いはちょっとちがった。
近くに陶芸の工房があり、ここはどちらかといえばお年寄りを中心に陶芸を楽しむ方達
のための、町主催の工房なのだが見学を理由に気紛れにのぞいてみた時だった。二十数年来この工房の横を行き来しながら覗いて見ようと思ったこともない其処に、ふと立ち寄ったその時の「ふと」という瞬間の感覚の揺れの不思議を思う。「ふと」は探し求めるものではない。「ふと」は向こうからこちらにやってくる。「ふと」に誘われるままに私はついていった。年長の女の人がとても力強く手びねりで広がり膨らんでいく大きな鉢を造っている最中だった。すごいなあと感心して眺めていると、向こうにいる人がわざわざその女の人の歳を教えてくれた。うっすら額に汗をにじませたその方は八十六歳という。土を練る力強い雰囲気と柔らかな面差しと八十六歳がすぐには結びつかなかった。とても驚いた。執着など高らかに笑い飛ばしたかのように、まっさらな気持ちで大きな鉢と向き合うその精気に圧倒される。自身の内面の充実がかたちを生みつつ輝きを放ちつつかろやかな重ねは造形されていく。そして、その精気の膨らみの輝きの放射に、あこがれを伴った感動がふつふつと沸いてきた胸のときめきは思いがけない喜びだった。
時には何をしてもつまらなく何を見ても感動しない沈む日々がある。沈んだままいつ浮上するのやら未定の約束のない日々である。そういうときはいっそう静かに感覚の先端を研ぎすますに限る。そうすれば、それは向こうからやってくる。
「ときめきに出会う」 榛葉莟子
一天にわかに掻き曇り、見上げた空にはもくもく黒雲がわきでている。今しも大粒の雨が落ちてくる気配に一緒に歩いていた知人と顔を見合わせた。来るよ来るよ急ごうっと帰り道を走った。家に着くとまもなくパラパラパラパラ其処いら中にぶつかるようなすさまじい音が始まった。驚いた事にバケツをひっくり返したようなものすごい量の霰(あられ)が勢いよく降ってきたのだ。何事かと猫まで走って出てきた。白色不透明の小さな氷の玉の大群が、緑の地に勢いよく飛び跳ねて四方八方に転がる光景に魅とれた。足もとに転がってきた一粒の氷の玉を透かしてみれば汚れた白さの輝きを見る。みぞれにまじって降る霰や雹(ひょう)は経験済だけれども、大量の氷の霰だけが降り続く現場に出くわしたのは初めてだった。あっけにとられたまま降りしきる霰の大群を眺めていたあのファンタジーな数十分は、天のいたずらだったかのようにもうしとしと雨が降りはじめ、静けさの向こうからカッコウのなく声が聞こえていた。
こんな機会に霰の漢字を辞書で確認できたのだけれどそのついでにおもしろくもあるし感心したのは、おかきのあられは言うに及ばず、降る霰の様子に似せたあるいは偶然似た霰状の模様や姿かたちを呼ぶのに、霰を頭につけた途端説明や意味を超えた洒落た匂いが漂って来てぱっと感覚を刺激する比喩のうまさ。たとえば霰石、霰絣、霰釜、霰粥、霰小紋、霰酒、霰星等々さまざまな言葉の創造、感覚的とらえ方の日本語の表現にいまさらながらほれぼれする。たかがあられ、されどあられでぜひ辞書の霰の頁を開いてみてとすすめてしまいたい。なるほどなあと前頭葉の新しい豆電球がぽっと灯ったりする。
そういえば筋肉なんかよりずっと変形自在でいくらでも鍛えられるのが前頭葉だそうだ。創造とか判断とか知性的とされる活動にことごとく関わっていてヒトが人でいられるための中心だという。便利に呪縛されている事に気づかず使われなくなった器官は退化するというのが生き物である故の宿命だという。で、どうなるかといえばヒトは歩き出す前の状態に戻ってしまいヒトが人らしくなくなるという。実際ヒトが人でなくなっているとしか思えない事件が次々起きている事とつながってしまう。それにしても私たちものづくりは直線的便利さよりも、曲がりくねっためんどくささの道中にこそ詰まっている充実を当然のように知っている。物事を簡単に見るのは自分の眼を曇らせ、たいくつを呼び寄せるだけだということも知っている。故に私たちの前頭葉は日々鍛えられているということになるのだよと自分の前頭葉に言い聞かせる。
それにしても不安定な空模様が続く。新緑から濃い緑に染まり始め満開のツツジの赤がおひさまの変わりのように明るい。けれども田植えするお年寄りの素足は冷たそうで、ツツジの花の熱くらいでは素足の水は冷たいままだ。そこへ氷の霰とは…と、梅雨寒とはいえ油断ならない寒さについつい天をにらんでもはじまらない。歩いたりしていれば野良仕事のおじいさんやおばあさんと挨拶したり立ち話はよくあることで大体はそれだけのいっときの事だけれども、先日の出会いはちょっとちがった。
近くに陶芸の工房があり、ここはどちらかといえばお年寄りを中心に陶芸を楽しむ方達
のための、町主催の工房なのだが見学を理由に気紛れにのぞいてみた時だった。二十数年来この工房の横を行き来しながら覗いて見ようと思ったこともない其処に、ふと立ち寄ったその時の「ふと」という瞬間の感覚の揺れの不思議を思う。「ふと」は探し求めるものではない。「ふと」は向こうからこちらにやってくる。「ふと」に誘われるままに私はついていった。年長の女の人がとても力強く手びねりで広がり膨らんでいく大きな鉢を造っている最中だった。すごいなあと感心して眺めていると、向こうにいる人がわざわざその女の人の歳を教えてくれた。うっすら額に汗をにじませたその方は八十六歳という。土を練る力強い雰囲気と柔らかな面差しと八十六歳がすぐには結びつかなかった。とても驚いた。執着など高らかに笑い飛ばしたかのように、まっさらな気持ちで大きな鉢と向き合うその精気に圧倒される。自身の内面の充実がかたちを生みつつ輝きを放ちつつかろやかな重ねは造形されていく。そして、その精気の膨らみの輝きの放射に、あこがれを伴った感動がふつふつと沸いてきた胸のときめきは思いがけない喜びだった。
時には何をしてもつまらなく何を見ても感動しない沈む日々がある。沈んだままいつ浮上するのやら未定の約束のない日々である。そういうときはいっそう静かに感覚の先端を研ぎすますに限る。そうすれば、それは向こうからやってくる。