◆“WAVE” 1991年 ワコール銀座アートスペース
Paper work 5.6×4.5×0.9~1.7
撮影:淺川敏
Paper work 5.6×4.5×0.9~1.7
撮影:淺川敏
◆“M0RNING GLOW” 2004年 ワコール銀座アートスペース 360×540×30cm 280×390×25cm
撮影:浅川敏
撮影:浅川敏
◆“UNIVERSAL SEED(宇宙種)”
1994年 ワコール銀座アートスペース
Paper work 4.0×4.5×0.7~1.2
撮影:浅川敏
1994年 ワコール銀座アートスペース
Paper work 4.0×4.5×0.7~1.2
撮影:浅川敏
◆アースワーク“WAVE” 1991年 日光の杜 Paper work
撮影:浅川敏
撮影:浅川敏
◆“COCOON” -生まれ変わる- 2001年 183×180×143cm
撮影:浅川敏
◆“聖域に降りた星々の詩” 1995年
撮影:浅川敏
撮影:浅川敏
◆“The red of dawn” 2004年 国際タペストリー・トリエンナーレ・ウッジ(ポーランド) 180×180cm
撮影:作者
撮影:作者
◆“M0RNING BEAT” 2005年 SHIBORI「触発と異層」
撮影:小林宏道
2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。
「私の歩み」 矢島雲居
朝早くこの杜にたたずむ。杜の朝が明けて行く瞬間を待つのです。ここは巨木が聳え立ち、荒々しい表情の岸壁が迫る、日光滝尾神社参道入口の杜、(1999年 世界遺産日光の社寺)500年以上前、先人が植林した杉は自然の杜となりエネルギーに満ちています。作品を制作する日は必ずここに来てから、作業を始めます。生まれ育ったこの近辺は私にとっての創作の原点でもあります。
2004年6月「MORNING GLOW」個展は、この杜で撮影中に出会ったオーロラのように柔らかく大きな揺らぎを持って現れた朝焼けです。数百本のテープを並べ素材の弾力性が大きなうねりを描いて、空間全体の空気と柔らかく触れ合うようにしました。2003年6月上野真知子さんのステンレスバネ線とテグスで編んだ布のインスタレーションを拝見し、素材を作った目的を思い出しました。“空間に舞う布”。作りたいと思ってから16年が経っていました。素材は和紙を細いテープ状にカットし、バネ線に糊付けしたオリジナル「和紙テープ」です。
このテープを創るきっかけとなったのは、1988年8月ワコール銀座アートスペースでの初個展で、カーブのある2枚のアクリル板に織物を挟んだ衝立「WAVING SCREEN」を発表した時です。作品を見ている内にもっと自由に自立する力を持った「空間に舞う布」を作りたいと思いました。それには素材を変える必要があると考えました。当時、東京テキスタイル研究所のかすり教室で学んでいた私は関島寿子先生のクラスの作品に触れる機会があり、一本の糸から自立した形になるバスケタリーにそのヒントがあると感じました。そして、1989年4月、初めての授業で出会ったのが“紙バンド”です。コイル状に巻かれ、そこから繰り出される、いくつものいくつもの“らせん”にすっかり魅せられてしまいました。紙バンドは15.5㎜、13本のクラフト色の紙ひもが糊付けされ、弾力がありました。この素材に可能性を感じ、自立するべく木工ボンドですり鉢状に張り付けたもの、また舞うようにらせんをそのまま生かしたもの、結び目を作って動きのおもしろさを表現したものを夢中になって作っていましたが…。もっと“シャープさ”がほしいと思いました。シャープさを求めて、織機にピアノ線を掛け、和紙を織り込んだり、試行錯誤が続きました。そんなある日、障子に面した製図台の上に20数センチのピアノ線の切れ端2本と、半紙大の烏山の鳥の子和紙が並んでいました。こういう出会いは本当に不思議です。瞬間的に“糊付けしてみては…。”そして、1989年7月シヤープで美しいアーチを描いて自立する素材「和紙テープ」が誕生しました。ところが和紙に錆が出ていたのです。神棚のいなずま型の紙垂(しで)、お供え物の下にピンと敷かれた和紙等、私にとって和紙はとても神聖な存在で、その色は“真っ白”でなければいけないと思っていました。関島先生はレポートのコメントに“錆も着色の方法では?”と書いてくださいましたが。約2年間、錆を防ぐため、糊、錆止め剤、ワイヤー等変え、また和紙を加えて、試作を続けました。最終的に手にした理想の「和紙テープ」はピアノ線がステレスバネ線に変わっただけで、最初に他のすべては完成していたことが分かりました。求める思いが、感覚を研ぎ澄まし、一度にすべてを導き出していました。
白い和紙テープの作るらせんを見ていると自然の中で揺れ動く姿が見たくなりました。最初は手軽さもあり宿泊施設の閑静な広い庭園を考えていました。ロケを行うと以外に狭く、しかもイメージが違う事がわかりました。そして、もう一つの候補地があの杜でした。狭いのではと考えていたのですが、直径2m高さ40mもの杉が従える空間は実に広いもので、幼い頃からこのスケールで育ってきたことに初めて気づきました。この杜を気に入ったのは、私の作品を撮り続けて下さっている写真家の浅川敏さんでした。
1991年6月30日早朝。白い和紙テープで1000個のらせんを描きました。雨ですべてが美しいらせんを描くことはできませんでしたが、シャープな白いらせんの集合は樹木や下草の緑の中で“場”と響き合い、ふとあらわれた「祝祭の場」となっていました。前日、杜の中心に立ち、その場で感じた流れに沿って、20本のライン上にステンレスパイプ1000本をさし、当日テープに取り付けた針金をパイプに差し込むとらせんが描かれて行きます。当日、午前3時。車のヘッドライトに照らし出されたステンスパイプは暗闇の中で無数の光の矢となり大地を突き刺していました。この地の底深い闇の部分を目にしたようでした。総勢10名、1時間30分の個展DMの撮影のためのアースワーク「WAVE」でした。
1991年9月「WAVE」個展は、あの時感じた杜に渦巻く大気やエネルギーを形にしたものです。ギャラリーの模型上でスタディーするうちに、手のひらが時計回りにゆっくりと球をなぞるように描く渦巻きが、その時の動きを捕らえているようでした。そして、それに根源的な動きを感じました。その軌跡を写し取って、最も美しいらせんを描くように配置しました。
この作品は今年6月デンマークで16年ぶりに再現される事になりました。現在テープを制作中です。テープを変えると設計図のあるこの作品は常に新しく生まれ変わることができます。それは、精神と本質を受け継ぎながら新年を迎える度に、取り換えられる注縄の紙垂、少し飛躍しますが、伊勢神宮の二十年に一度の式年造替が持つ日本文化の特徴と共通しています。日本人の繊細な感性を紹介するデンマークでの展覧会。この作品がどんな表情で場と響き合うのか、楽しみにしています。
アースワークから3年。杜の霊魂とも言うべき球状の「SEED」を制作しました。両手の親指と人差し指で作る輪の大きさから、テープが描くアーチ形を生かして、巻止めをバランスを保つ大きさまで繰り返します。約80㎝φでした。素材はアースワークで使用して錆色になったテープです。一度限りとピアノ線を使ったのですが、予期せぬ雨に合い両側が茶色になっていました。錆を嫌い、処分も考えたのですが、当時テープを作るのに非常に時間がかかったため廃棄できず、袋に入ったままになっていたのです。それが三年経ってみると赤茶色のきれいな色合いになり、両側の錆色が中央部をいっそう白く見せ、存在感も増していました。これ以降、錆は時のプロセスを表現する欠かせない着色方法になりました。
1994年10月の個展「宇宙種」 星がたくさん生まれる星雲をイメージし、ギャラリーの同一面に、SEEDの手法を使って制作した63個の黄球を吊るしました。この展覧会を見て下さった日光在住の方の「非常に窮屈。外でなさったら。」 の一言から、1995年5月の金谷ホテル庭園でのアースワークになりました。個展が終わって一週間後、その方のお宅の庭で3日間のアースワークをさせて頂きました。吉田五十八氏のお弟子さんで中里稔氏設計の数寄屋造りの建物の前の月見台に一つ、そして庭のあるべき位置に黄球を点々と置いたインスタレーションが心に残りました。その時、公のスペースでのアースワークを勧められ、気に掛けていた時、偶然金谷ホテルの大谷川沿いの庭と出会いました。ここは、国立公園風致地区の特別地域で規制が厳しく、そのため美しい自然が保たれていました。このアースワークの題名「聖地に降りた星々の詩」を考えて下さった方のご紹介を通じて、金谷ホテルの社長にお会いし、承諾を頂く事ができました。ネックになったのが特別地域でした。大谷川沿いの河川敷に黄球を置き、川を挟んだ道路側からの空間的、意識的な繋がりをこの中心に考えていたのですが、環境庁の見解は道路から見えないこと。社長もホテルのためという意味でなく、道路から見えないのでは個人の家でやるのと同じ、アースワークの意味がない。アートであり、短期間でもあり、設置を認めてもらうように県の美術館への働きかけを勧めて下さり、県立美術館、県自然環境部へ直接出向いて話をしましたが、解決策は見つからず、可能な範囲で行うことにしました。
金谷ホテルの建つこの地は、奇しくも修験道の行場の一つ「星の宿(しゅく)」でした。日光開山の祖勝道上人はこの地で見た明けの明星に導かれ、男体山登頂を果たしたと言われています。個展の時より一回り大きくした黄球65㎝φ28個を川沿いの崖、石仏の脇、背後にある大黒山等、この地の本質を浮かび上がらせる場所に置きました。「星の宿」の行場には違う空気が流れていて、置くことは出来ませんでした。5000mのテープを使用した黄大玉は日光開山の祖に捧げるべく、庭の中央に置きました。5月20~28日の期間中、油引きしていないテープの作品もあり、連日早朝天気の神様にお参りしました。そのお陰だと思いたいのですが、予報に反し、雨は降りませんでした。
黄大玉を見た瞬間、大きい、そして時を感じる。その存在感は幼い頃から見ていた大樹の印象を強く受けたものだと思います。大樹はその場を動く事なく、自分自信で何百年もの時をかけ、人に見守られる存在になります。それを求めて、ただひたすら18㎝φの輪から巻止めを繰り返し150㎝φの作品にしました。この作品を今立現代美術紙展に出品。それをプラスマイナスギャラリーの方が見て下さり、1998年1~2月の「響き合う場」の個展になりました。この3作は“輪廻”のテーマを秘めています。赤い作品は時と共にピアノ線の錆によって朽ちた色になり、中に入っている種となる小さい球が成長し始めます。白い作品は錆によりやがて赤くなって行きます。黄球は不変である自然の摂理を表しています。
2001年作品「COCOON」。これは私の名付親である折口信夫先生の50年祭を2003年に控え、魂を慰め、宿す母なる光の衣に包まれた安らぎの場として制作しました。設計事務所に勤務した後1984年介護のため帰郷し、以前から興味のあっ織物を始めて2年後、大病に直面。その直前に読んだ先生の「死者の書」。俤(おもかげ)人のためにハス糸で織物を織る朗女(いらつめ)。思い込みが強く、私も先生のための織物を織るために生かされたのではと。しかし、先生の著書、関連書を読み進めて行くうち、先生自身の俤人のためであることがわかりました。とは言え、先生の生い立ちを知り、自分が今できる方法で何かを捧げたいと制作しました。中に人が入れるスペースを作るため、大きな一つの輪から巻止めを繰り返し180㎝φ高さ140㎝の大きさなりました。個人のために始まった制作でしたが、すべての人に通じる普遍的なテーマをもっていました。機会を見てC0COONシリーズ作品を発表したいと考えています。 2004年6月ポーランドのウッジで開催された「国際タピストリー・トリエンナーレ・ウッジ04」に日本から5人の作家が参加し、その一人として出品しました。作品は「The red of dawn」180×180cm 樹木の間を朝日が燃えるような赤で染め上げた瞬間を表現しました。会場で作品を見たとき驚きました。作品は天井高3mの中心になるように吊られていました。見る人の中心にくるようにヒューマンな位置に吊るす事を考えていたのですが、指示書に床からの高さだけ明記するのを忘れていたのです。こんなにも違ってしまうのか…。大空間で、ほかの作品と並ぶ時、いろいろな意味で刺激を受けますが、“自分らしさ”が完成していることが一番大事だとこの時思いました。
2005年にはSHIBORI「触発と異層」に参加する機会を得て、 「MORNING BEAT」を出品。「MORNING GLOW」のうねりにもっと細やかな表情がほしいとスタディーするうちに“折る”手法を見つけました。テープを折ることによって、生まれる動き、陰影。そして、それぞれのテープの重なり、和紙の存在もあって、新しい表情が生まれました。和紙は今立現代美術紙展に出品した際、地元の長田製紙所さんのご好意で頂いた銀色の襖紙の縁紙を使いました。
一つのものが生まれ、また次のものを生み出して行く。作品も人との繋がりも、不思議な糸を結び続けながら歩んで来ました。ウッジ04に参加し、ポーランドを4泊6日、一人で汽車に乗り、田園風景を眺め、町を歩いて見ると、日本の大地がもつパワーとその作り出す繊細な自然環境を改めて感じることが出来ました。その本質を見つめながら、空間を響かせる、そして磁場として発信する作品を求めて、2008年の個展に向け、日々波動を広げている泉をイメージした作品を制作しています。