◆1972年3月「ときわ画廊」個展会場
手前『凝着(Ⅳ)』1971年8月~1972年1月(鉄)
手前『凝着(Ⅳ)』1971年8月~1972年1月(鉄)
◆橋本真之「凝着(Ⅱ)」 1971年7月制作 (鉄)
◆橋本真之「凝着(Ⅲ)」 1971年8月制作 (鉄)
◆橋本真之「凝着(Ⅴ)」 1971年9月制作 (鉄)
◆橋本真之「凝着(Ⅵ)」1971年9月~1972年1月制作 (鉄)
2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法の理路・素材との運動④』 橋本真之
2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法の理路・素材との運動④』 橋本真之
二十代の半過ぎまでの私の行きつ戻りつの試行錯誤は、今の私には殆ど混乱と見える。当時の私の若々しい集中力・持久力は人並以上だったつもりだが、それでも私の内の筋道は、あやうくブツ切れになりかねない有り様だった。私の大学時代の記憶は、むせかえるような花粉の臭いに重なっていて、その死の臭いと裏腹な世界は、性の臭いに充ちていた。私は身体ごと薫風の中に足場を失なってしまいそうな、生の錯乱を感じていた。
十九歳の時、現在女房になっている女性に出会っていたが、淡い出会いが次第に濃密になって行くのに、幾度も別れながら七・八年かかった。
最初の個展のあと、かの女性と上野公園を歩いていて、突然、私の頭の中で『凝着』が始まったのである。林檎が林檎に凝着する。つまり、『坑道』と『歩道』の二つの方向に分岐していた造形上の筋道が結びつくという、唐突な出来事ではあったが、私はその意味の重要さを理解した。さもなければ、前例のない、あまりに冗談じみた出来事に、うっかりと見過ごしかねないような唐突さだった。それは、金属の膜状の林檎の中心に向かって、同様に空間を孕んだ膜状の形態の塊を重ねるという事である。『歩道』においては熔接という工作技術でしかなかったものが、ここにおいて造形的役割として特殊化するように思えた。このことは、技術が造形思考として転位するために重要なスプリングボードだったのである。それは孤立した青年期の心の内で、鉄という素材に仮託した、私の意志の造形作用でもあったのに違いない。私は仮空の中心を包んだ鉄の形態に、あえて比喩の連鎖によってニュートラル化した鉄のフォルムを、いくつも重ねることで、中心核を顕現させようとしたのである。それは降る雪を見上げると、パースペクティブによって、仮空の中心が出来るのを見い出すように、それは私の視覚による感覚的中心に過ぎないのではある。けれども、私にとって異物である鉄に包まれた空間に、確実な感覚的基点を見いだしたいと願っていたのである。
祖母が一人で耕作していた畑の片隅に、小さな仕事場を建て、私は大学院を中退した。林檎ひとつを作る鍛金の技術を持ったからといって、それで生活が成り立つはずもないのは重々解ってはいたが、あとは他人に学ぶべき問題ではないということが明瞭だった。
大学院の二年になって、静岡の寄宿制のミッションスクールに、臨時の美術教師として週二日、泊まりがけでアルバイトに行っていたので、収入はそれでなんとかなると高を括っていた。美術教師という仕事が、それ程安易なアルバイトでは有り得ないということを思い知らされて、結局二年間で退職したのだが、私はこの二年間に、知らず知らずの内に、人前で筋道立てて話をする訓練をしたようだ。その事とは別に、この当時の数年間に、私に訪れた出来事が、私の中に解きほぐし難いひと塊のものに結石しているように思える。しかも、それらの出来事の塊が、現在の私の造形思考の重要な基底となっているのを自覚している。私はそれらの内の顕著な事例をほぐして、断片的にでも列ねて置く必要があるだろうと思っている。私を心底揺さぶった出来事のいくつかを辿ることで、当時、私が親しい友人に「崇高の相」を見ていると語り、書き送りもして来た事々の、根底のつながりを解きほぐしてくれるように思えるからである。
聖なる音楽の聞こえるベット
富士の裾野にあるカトリック女子修道院付属の中学・高校での美術教師の生活は、今では夢心地の記憶である。毎週、東海道新幹線を利用して、最寄りのM駅で降り、そこから急勾配の坂道をタクシーで行かなければならなかった。一日指導して、夜は修道院に泊まり、翌日また一日指導して帰って来るという繰り返しだった。慣れない女子生徒達を相手に一日過ごして、くたくたに疲れて礼拝堂の前の客室に泊まった。小さな机とふたつの椅子の他には、鉄製のベットがひとつあるだけだった。そして壁に聖画の複製が一枚額に入っていた。客用の食堂に運ばれる簡素な夕食を一人ですますと、あとは部屋で読書でもして夜を過ごすしかなかった。慣れて来ると、寄宿舎の高校生が一人、話をしたくてやって来るようになったが、舎監の修道女によく連れ戻されて行った。おそらく、あとでお説教されていたのに違いない。何回かやって来たが、ぷっつりと現われなくなったからである。
読書に疲れて礼拝堂に行くと、そこには何時も黒装束の修道女の一人二人が薄暗い片隅で祈っていて、異教徒の私がぼんやりと坐っているのも憚れるほどの自己集中の姿があった。
ある夜、何かの拍子にベットの中で目醒めると、どこからか聖歌が聞こえて来るのだった。同じ旋律がいつまでもいつまでも繰り返されていて、こんな真夜中に聖歌が唄われている奇怪さに不審を覚えて、ベットを抜け出し、向かいの礼拝堂の扉を開けた。遠くに蒼ざめたキリストの十字架に、ぽっんと暗い照明があたっていて、ひと気のない陰鬱な空間があるだけだった。廊下に出て窓辺に近付くと、聖なる歌として聞いたものの正体が、丘の下から聞こえて来る高速道路を走る車の音であることに気付いた。真夜中の修道院の磨き上げられた廊下を歩きながら、丘の下から立ち昇るように聞こえて来る高速車の音のリズムの繰り返しが、聖なる歌に聞こえる錯覚に合点が行った。明かりを消してベットに入ると、ゆるやかにまどろみがやって来て、再び聖歌が聞こえて来た。私はいつまでも繰り返される旋律の中で眠りに入った。
翌朝、礼拝堂に行く生徒達のざわざわとした足音で目覚めた。聖歌を唄う声が聞こえて、朝の目醒めのまどろみをベットの中で過ごした。起き上がってカーテンを開くと、遠くの丘の道の途中で、黒衣の修道女が一人、朝日を浴びて瞑想しているのが見えた。その時、現実の聖歌よりも聖なる歌として聞こえた昨夜の車の騒音の意味を、私は確かに理解した。自らの中に聖歌を聞く用意がないところでは、いかに匠みに仕組まれた楽曲も、単に騒音に過ぎないと認識したのである。実に、騒音を聖なる歌として聞くということこそ、我々自らの「存在の上澄み」を見る証左と知るべきなのであろう。そうとすれば、造形においても、同様の手順で問題は解けるに違いないのである。私はそのように理解した。
海辺の林檎
週二日の静岡からの帰りは、いつも東海道線の鈍行列車で帰って来た。確か、その日は授業の都合で早く帰ることが出来たのだった。海辺の小さな駅に停車中、私はぼんやりと窓の外を眺めていて、不意に途中下車したのである。海岸に出ると大小の石が無数にころがっていた。私は足下を取られながら、目まいするように歩いていた。ひとつひとつの石に気を取られている内に、それらが林檎に見え始めたのである。そのことに気付くと、隣りの石も、その隣りの石もと、次々と林檎に見え始めるのだった。あてどもなく続く海辺の物達の全てが林檎に見え出した時、私は驚き怖れた。あるいは、それらの出来事は凝着するニュートラルなフォルムに世界全体が覆われたと言うべきだろうか?あるいは世界全体がフォルムとして顕われて、個々の存在の固有性が失われてしまったと言うべきなのだろうか?とにかく、私はそれら全てを「林檎」であると認識したのだったが、実は「林檎」と言うことさえ許されないのかも知れないのである。明らかに、それは世界全体が運動するフォルムとして顕現していた。ありあわせの紙にボールペンで写生をしてみたが、落ちつかず、それを捨て歩き続けながら、私はこの場処からは帰らねばならぬと思った。今でも私は、その日、フォルムというものを獲得して帰ったと思っている。
夕べの帰路
大学院を中退した後、仕事場が整い、初仕事に厚さ1.6mmの鉄板を叩き絞って、最初の『凝着(Ⅰ)』が出来た。厚さ1.6mmの鉄板は、すでに私にとって慣れ親しんだ抵抗だった。『凝着(Ⅱ)』は厚さ2.3mmの鉄板にした。さすがに2.3mmの鉄板は私の筋力で扱える範囲を超えていて、ようやくの思いで絞り続けた。けれども一ヶ月も叩き続けている内に、困難と思えた鉄の抵抗が、いくぶん柔らいように思えて来るのには心底驚いた。再び1.6mmの厚さで『凝着(Ⅲ)』を作った後、2.3mmでニュートラルな形にニュートラルな形を凝着させる『凝着(Ⅳ)』に向かったが、途中で私は欲を出して、厚さ3.2mmで直径90cmの円形の鉄板を絞り始めた。これまでよりも大きな重い金槌を使って、覚束ない仕事ぶりだったが、直径90cmの鉄板二枚を皿状にまで絞り、ここが曲率の限度というところで、新たな鉄板をつぎ足して、半球状にまで林檎を叩き絞った。当て金の上に作品を乗せて叩き絞るのだが、左手で作品を持ちささえる限界を超えていた。芝々、ささえきれずに転げる作品を追わねばならなかった。上下の半球を熔接してしまうと、もう左手でささえることが出来ずに、当て金を固定してある切り株の木床ごと、私と作品が一緒になって仕事場をころげまわる仕末だった。かって、先輩が大きな作品の部分を最後に熔接した後のつなぎ目を削って、その後を金槌で叩いて慣らしていたが、その時使っていた自動車板金工が使う当て盤を思い出して、試して見ることにした。3.2mmの鉄板を叩く衝撃を受けるために、左手には軍手の上から皮手袋を二枚重ねることにした。作品を左手でささえる困難の替りに、左手に当て盤という鉄の塊を持って、当て金の替りにする訓練を始めた訳である。右手で振りおろす金槌を当て盤で正確に受けることが出来るようになるためには、当て金を扱うのと同様に、かなり訓練が必要である。どれほど腕力があるとしても、大きな作品を左手でささえるのに限界があるのであれば、この訓練は有効に違いないと思ったのである。金槌の当たり具合を知るには、目よりも耳と手ごたえで嗅ぎ分けることになる。
四ヶ月かかって、高さ80cm程の林檎が出来、『凝着(Ⅵ)』が完成した。この四ヶ月の仕事で、新しくこしらえた大きな金槌はひび割れて歪んでいた。私は左手を打ちくだいてしまいかねない困難な作業を一生続けるのだろうか?そう考えると、生来強引な性状の私も、少し弱気になって、厚さ2.3mmに戻して同じ大きさを試みることにした。3.2mmを四ヶ月叩き続けた後、2.3mmの鉄を叩いた瞬間、鉄は柔かかった。私は力八分で仕事が出来ることを知って、当て金を使って絞るように、当て盤でも絞ることが出来るのを発見した。四ヶ月の内に、私の左手は利き腕の右腕よりも強くなっていて、鉄製の当て金の替りにフレキシブルな当て盤を持った左腕を訓練していたのである。その時、まだ左腕に自在を得たとは言い難いが、とにかく用をなす左腕を訓練できた事で、私の技術は展望が開けた。この時、私は「当て盤絞り」を自らのために発見した訳である。
その頃の出来事だった。日々の仕事場からの帰り道の私は、一日中鉄を叩き続けて疲労困憊の有り様で、夕べの帰り路を歩いていた。遠くの畑の向こうの小さな家々の窓から夕餉の光が漏れていた。消失点にまで真直に続いている帰り路を呆けて歩いていると、脇道から出て来る車や、横切る犬が、奇妙に秩序立っているように見えるのだった。今ここで起きている事々が、全て約束され、用意されていた事のように厳そかな出来事に見える。そして、充足した高揚感が私を掴えて、道を曲がるごとに、空間が速度を増して大きく拡がって行くように思えた。ちょうど北海道における空間的視覚が開けて行くように見えるのだった。これらの物事が全て今ここで立ち昇っているような存在として見えると言えば良いのかも知れぬ。私はこの切実な感情をともなった空間感覚を「崇高な相」と呼んだが、今となっては、それが正確な概念であったとは思われない。それでも、そうした出来事が私の内を領していて、何か私の生存の根拠が、危うげではあったが、そこに接触しているように思えるのだった。私は作品世界がこのようであれば良いと、切実に願望した。私は当時の空間感情を発火点として、自己変革と訓育に向かっていた。