ART&CRAFT forum

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造形論のために『方法の理路・素材との運動④』橋本真之

2016-12-15 10:00:03 | 橋本真之
◆1972年3月「ときわ画廊」個展会場
     手前『凝着(Ⅳ)』1971年8月~1972年1月(鉄)

◆橋本真之「凝着(Ⅱ)」 1971年7月制作  (鉄)

◆橋本真之「凝着(Ⅲ)」  1971年8月制作  (鉄)

◆橋本真之「凝着(Ⅴ)」  1971年9月制作  (鉄)

◆橋本真之「凝着(Ⅵ)」1971年9月~1972年1月制作  (鉄)

2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法の理路・素材との運動④』   橋本真之

 二十代の半過ぎまでの私の行きつ戻りつの試行錯誤は、今の私には殆ど混乱と見える。当時の私の若々しい集中力・持久力は人並以上だったつもりだが、それでも私の内の筋道は、あやうくブツ切れになりかねない有り様だった。私の大学時代の記憶は、むせかえるような花粉の臭いに重なっていて、その死の臭いと裏腹な世界は、性の臭いに充ちていた。私は身体ごと薫風の中に足場を失なってしまいそうな、生の錯乱を感じていた。

 十九歳の時、現在女房になっている女性に出会っていたが、淡い出会いが次第に濃密になって行くのに、幾度も別れながら七・八年かかった。

 最初の個展のあと、かの女性と上野公園を歩いていて、突然、私の頭の中で『凝着』が始まったのである。林檎が林檎に凝着する。つまり、『坑道』と『歩道』の二つの方向に分岐していた造形上の筋道が結びつくという、唐突な出来事ではあったが、私はその意味の重要さを理解した。さもなければ、前例のない、あまりに冗談じみた出来事に、うっかりと見過ごしかねないような唐突さだった。それは、金属の膜状の林檎の中心に向かって、同様に空間を孕んだ膜状の形態の塊を重ねるという事である。『歩道』においては熔接という工作技術でしかなかったものが、ここにおいて造形的役割として特殊化するように思えた。このことは、技術が造形思考として転位するために重要なスプリングボードだったのである。それは孤立した青年期の心の内で、鉄という素材に仮託した、私の意志の造形作用でもあったのに違いない。私は仮空の中心を包んだ鉄の形態に、あえて比喩の連鎖によってニュートラル化した鉄のフォルムを、いくつも重ねることで、中心核を顕現させようとしたのである。それは降る雪を見上げると、パースペクティブによって、仮空の中心が出来るのを見い出すように、それは私の視覚による感覚的中心に過ぎないのではある。けれども、私にとって異物である鉄に包まれた空間に、確実な感覚的基点を見いだしたいと願っていたのである。

 祖母が一人で耕作していた畑の片隅に、小さな仕事場を建て、私は大学院を中退した。林檎ひとつを作る鍛金の技術を持ったからといって、それで生活が成り立つはずもないのは重々解ってはいたが、あとは他人に学ぶべき問題ではないということが明瞭だった。

 大学院の二年になって、静岡の寄宿制のミッションスクールに、臨時の美術教師として週二日、泊まりがけでアルバイトに行っていたので、収入はそれでなんとかなると高を括っていた。美術教師という仕事が、それ程安易なアルバイトでは有り得ないということを思い知らされて、結局二年間で退職したのだが、私はこの二年間に、知らず知らずの内に、人前で筋道立てて話をする訓練をしたようだ。その事とは別に、この当時の数年間に、私に訪れた出来事が、私の中に解きほぐし難いひと塊のものに結石しているように思える。しかも、それらの出来事の塊が、現在の私の造形思考の重要な基底となっているのを自覚している。私はそれらの内の顕著な事例をほぐして、断片的にでも列ねて置く必要があるだろうと思っている。私を心底揺さぶった出来事のいくつかを辿ることで、当時、私が親しい友人に「崇高の相」を見ていると語り、書き送りもして来た事々の、根底のつながりを解きほぐしてくれるように思えるからである。

聖なる音楽の聞こえるベット
 富士の裾野にあるカトリック女子修道院付属の中学・高校での美術教師の生活は、今では夢心地の記憶である。毎週、東海道新幹線を利用して、最寄りのM駅で降り、そこから急勾配の坂道をタクシーで行かなければならなかった。一日指導して、夜は修道院に泊まり、翌日また一日指導して帰って来るという繰り返しだった。慣れない女子生徒達を相手に一日過ごして、くたくたに疲れて礼拝堂の前の客室に泊まった。小さな机とふたつの椅子の他には、鉄製のベットがひとつあるだけだった。そして壁に聖画の複製が一枚額に入っていた。客用の食堂に運ばれる簡素な夕食を一人ですますと、あとは部屋で読書でもして夜を過ごすしかなかった。慣れて来ると、寄宿舎の高校生が一人、話をしたくてやって来るようになったが、舎監の修道女によく連れ戻されて行った。おそらく、あとでお説教されていたのに違いない。何回かやって来たが、ぷっつりと現われなくなったからである。

 読書に疲れて礼拝堂に行くと、そこには何時も黒装束の修道女の一人二人が薄暗い片隅で祈っていて、異教徒の私がぼんやりと坐っているのも憚れるほどの自己集中の姿があった。

 ある夜、何かの拍子にベットの中で目醒めると、どこからか聖歌が聞こえて来るのだった。同じ旋律がいつまでもいつまでも繰り返されていて、こんな真夜中に聖歌が唄われている奇怪さに不審を覚えて、ベットを抜け出し、向かいの礼拝堂の扉を開けた。遠くに蒼ざめたキリストの十字架に、ぽっんと暗い照明があたっていて、ひと気のない陰鬱な空間があるだけだった。廊下に出て窓辺に近付くと、聖なる歌として聞いたものの正体が、丘の下から聞こえて来る高速道路を走る車の音であることに気付いた。真夜中の修道院の磨き上げられた廊下を歩きながら、丘の下から立ち昇るように聞こえて来る高速車の音のリズムの繰り返しが、聖なる歌に聞こえる錯覚に合点が行った。明かりを消してベットに入ると、ゆるやかにまどろみがやって来て、再び聖歌が聞こえて来た。私はいつまでも繰り返される旋律の中で眠りに入った。

 翌朝、礼拝堂に行く生徒達のざわざわとした足音で目覚めた。聖歌を唄う声が聞こえて、朝の目醒めのまどろみをベットの中で過ごした。起き上がってカーテンを開くと、遠くの丘の道の途中で、黒衣の修道女が一人、朝日を浴びて瞑想しているのが見えた。その時、現実の聖歌よりも聖なる歌として聞こえた昨夜の車の騒音の意味を、私は確かに理解した。自らの中に聖歌を聞く用意がないところでは、いかに匠みに仕組まれた楽曲も、単に騒音に過ぎないと認識したのである。実に、騒音を聖なる歌として聞くということこそ、我々自らの「存在の上澄み」を見る証左と知るべきなのであろう。そうとすれば、造形においても、同様の手順で問題は解けるに違いないのである。私はそのように理解した。

 海辺の林檎
 週二日の静岡からの帰りは、いつも東海道線の鈍行列車で帰って来た。確か、その日は授業の都合で早く帰ることが出来たのだった。海辺の小さな駅に停車中、私はぼんやりと窓の外を眺めていて、不意に途中下車したのである。海岸に出ると大小の石が無数にころがっていた。私は足下を取られながら、目まいするように歩いていた。ひとつひとつの石に気を取られている内に、それらが林檎に見え始めたのである。そのことに気付くと、隣りの石も、その隣りの石もと、次々と林檎に見え始めるのだった。あてどもなく続く海辺の物達の全てが林檎に見え出した時、私は驚き怖れた。あるいは、それらの出来事は凝着するニュートラルなフォルムに世界全体が覆われたと言うべきだろうか?あるいは世界全体がフォルムとして顕われて、個々の存在の固有性が失われてしまったと言うべきなのだろうか?とにかく、私はそれら全てを「林檎」であると認識したのだったが、実は「林檎」と言うことさえ許されないのかも知れないのである。明らかに、それは世界全体が運動するフォルムとして顕現していた。ありあわせの紙にボールペンで写生をしてみたが、落ちつかず、それを捨て歩き続けながら、私はこの場処からは帰らねばならぬと思った。今でも私は、その日、フォルムというものを獲得して帰ったと思っている。

夕べの帰路
 大学院を中退した後、仕事場が整い、初仕事に厚さ1.6mmの鉄板を叩き絞って、最初の『凝着(Ⅰ)』が出来た。厚さ1.6mmの鉄板は、すでに私にとって慣れ親しんだ抵抗だった。『凝着(Ⅱ)』は厚さ2.3mmの鉄板にした。さすがに2.3mmの鉄板は私の筋力で扱える範囲を超えていて、ようやくの思いで絞り続けた。けれども一ヶ月も叩き続けている内に、困難と思えた鉄の抵抗が、いくぶん柔らいように思えて来るのには心底驚いた。再び1.6mmの厚さで『凝着(Ⅲ)』を作った後、2.3mmでニュートラルな形にニュートラルな形を凝着させる『凝着(Ⅳ)』に向かったが、途中で私は欲を出して、厚さ3.2mmで直径90cmの円形の鉄板を絞り始めた。これまでよりも大きな重い金槌を使って、覚束ない仕事ぶりだったが、直径90cmの鉄板二枚を皿状にまで絞り、ここが曲率の限度というところで、新たな鉄板をつぎ足して、半球状にまで林檎を叩き絞った。当て金の上に作品を乗せて叩き絞るのだが、左手で作品を持ちささえる限界を超えていた。芝々、ささえきれずに転げる作品を追わねばならなかった。上下の半球を熔接してしまうと、もう左手でささえることが出来ずに、当て金を固定してある切り株の木床ごと、私と作品が一緒になって仕事場をころげまわる仕末だった。かって、先輩が大きな作品の部分を最後に熔接した後のつなぎ目を削って、その後を金槌で叩いて慣らしていたが、その時使っていた自動車板金工が使う当て盤を思い出して、試して見ることにした。3.2mmの鉄板を叩く衝撃を受けるために、左手には軍手の上から皮手袋を二枚重ねることにした。作品を左手でささえる困難の替りに、左手に当て盤という鉄の塊を持って、当て金の替りにする訓練を始めた訳である。右手で振りおろす金槌を当て盤で正確に受けることが出来るようになるためには、当て金を扱うのと同様に、かなり訓練が必要である。どれほど腕力があるとしても、大きな作品を左手でささえるのに限界があるのであれば、この訓練は有効に違いないと思ったのである。金槌の当たり具合を知るには、目よりも耳と手ごたえで嗅ぎ分けることになる。

 四ヶ月かかって、高さ80cm程の林檎が出来、『凝着(Ⅵ)』が完成した。この四ヶ月の仕事で、新しくこしらえた大きな金槌はひび割れて歪んでいた。私は左手を打ちくだいてしまいかねない困難な作業を一生続けるのだろうか?そう考えると、生来強引な性状の私も、少し弱気になって、厚さ2.3mmに戻して同じ大きさを試みることにした。3.2mmを四ヶ月叩き続けた後、2.3mmの鉄を叩いた瞬間、鉄は柔かかった。私は力八分で仕事が出来ることを知って、当て金を使って絞るように、当て盤でも絞ることが出来るのを発見した。四ヶ月の内に、私の左手は利き腕の右腕よりも強くなっていて、鉄製の当て金の替りにフレキシブルな当て盤を持った左腕を訓練していたのである。その時、まだ左腕に自在を得たとは言い難いが、とにかく用をなす左腕を訓練できた事で、私の技術は展望が開けた。この時、私は「当て盤絞り」を自らのために発見した訳である。

 その頃の出来事だった。日々の仕事場からの帰り道の私は、一日中鉄を叩き続けて疲労困憊の有り様で、夕べの帰り路を歩いていた。遠くの畑の向こうの小さな家々の窓から夕餉の光が漏れていた。消失点にまで真直に続いている帰り路を呆けて歩いていると、脇道から出て来る車や、横切る犬が、奇妙に秩序立っているように見えるのだった。今ここで起きている事々が、全て約束され、用意されていた事のように厳そかな出来事に見える。そして、充足した高揚感が私を掴えて、道を曲がるごとに、空間が速度を増して大きく拡がって行くように思えた。ちょうど北海道における空間的視覚が開けて行くように見えるのだった。これらの物事が全て今ここで立ち昇っているような存在として見えると言えば良いのかも知れぬ。私はこの切実な感情をともなった空間感覚を「崇高な相」と呼んだが、今となっては、それが正確な概念であったとは思われない。それでも、そうした出来事が私の内を領していて、何か私の生存の根拠が、危うげではあったが、そこに接触しているように思えるのだった。私は作品世界がこのようであれば良いと、切実に願望した。私は当時の空間感情を発火点として、自己変革と訓育に向かっていた。

『手法』について/村井進吾《SOLID》藤井 匡

2016-12-14 09:39:09 | 藤井 匡
◆村井進吾《SOLID 2000-4》1020×255×255㎜/黒御影石/2000年/撮影:山本糾

2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/村井進吾《SOLID》 藤井 匡 


 〈素材〉という言葉には注意が必要である。素材を単なるメッセージの乗り物として見るなら問題はない。しかし、制作において手が介在するとき、事前には存在しなかったメッセージを制作過程そのものが産出する場合がある。そうした作品について考えるならば、素材を単体として考えるのではなく、素材と制作者とを手が結びつける場所について考えなければならない。
 村井進吾は発表を始めた1980年代初頭から、素材としてほとんど石だけを扱ってきた。そして、同時に「なぜ石を扱うのか?」という質問への回答を回避してきた。それは作品が生まれる場所を制作主体に引き寄せて語ることを回避してきたのだと、僕は考えている。作者は、出現した作品が主体の志向の外側にあることを知っているのである。
 石を使用する背後には、かつての多摩美術大学・中井延也教室(石彫)の在籍や石彫家の共同によるアトリエKUUの結成といった個人史的な出来事が見えるだけに留まる。実際に作者自身も彫刻を始めた経緯について、画家になるつもりだったが、大学進学の際に彫刻科に入学してしまったから――と発言(註 1)している程度である。ここには、素材に関して自由な主体による選択といった意識は見えてこない。
 素材の石とは現実の中で出合ったものであり、他者(註 2)という自己の願望が投影されないもの、思い通りにならないものなのである。制作とは制作者の主体性に収斂するのではなく、この他者との交通として認識される。そして、素材との交通を可能にするのは他者に対する――他者に直面した自己に対する、と言い換えられるだろう――誠実さによってとなる。

 村井進吾《SOLID》は1996年から開始された、二つの石によって構成される作品群である。一方の石の内部を直線と平面がつくる幾何学的な形状に切り抜き、他方にその部分と同型・同質量に加工した石を差し込んで、直方体に戻す(限りなく近いものにする)作品である。例えば、《SOLID 96-3》は下側の石の上面を四角錐型に切り取り、上側から四角錐が突き出した石を組み合わせる。また、《SOLID 2000-4》は下側の石の上部の周囲を切り取って凸型にしてから、切り取られた部分に該当する石を上方から嵌め込んでいる。
 二つの石は、一つの石塊をカッターで切って外してから、もう一度嵌め込んだものではない。この手続きであれば、切断と復元が可能な形状であってもカッターの厚み分の石が失われてしまう。接合面にわずかな隙間も認めないならば、別々の石からミリ単位の精度をもった部品がつくりだされなければならない。作者が作品寸法をミリ単位で表記するのは、そうした態度を反映していると思われる。石同士をぴったり噛み合わせる行為は、そうした緻密な作業を通して想像的には完璧に達成される。
 しかしながら、現実には、その完璧さは単なる想像に過ぎないものとなる。どんなに精度を上げていっても接合箇所には必ず誤差が生じ、純粋な直方体には還元されない。仮に、同一寸法・同一形で同一箇所に切り目を入れた石があるとして、それとの比較を考えれば、このわずかな差異が視覚にとって決定的なものだと分かるだろう。《SOLID》は事前に引かれる図面をほんの少しだけ外れることによって成立するのである。こうした性質は行為の中から得られるものであり、意図されて得られるものではない。
 また、《SOLID》以降の作品では――安全面が重視される屋外展示のものを除いて(註 3)――エッジの面取り(角の切り落とし)が行われていない。《SOLID》のような作品で面取りを行えば、表面上の接合線は視覚的に滑らかに連続し、平坦な一枚板として認められることになり易い。それは反面、ごまかしを発生させ易く、行為を曖昧にしてしまう。
 しかし、そのことが石を組み合わせる作業をより困難にしてしまう。石のエッジは脆く、欠けやすい。自重がその部分にかかることで簡単に弾け飛んでしまう。したがって、石同士は隙間が認められないと同時に接触も認められない。面取りを行わないという、ある意味では些細なことが、石が重く・扱いにくく・意のままにならない存在であることを顕在化することになる。

 こうして考えると、不注意であれば単なる直方体に見える石が、極めて困難な道程から出現していることが分かる。勿論、表面上の視覚効果だけを求めるのであれば、費やされる努力は不毛でしかないだろう。その中で敢えてこうした『手法』、限りなく不可能の近い方法を採るのは、自己の存在と対位させるに値う石の存在を認めるからと思える。
 直方体への復元作業とは理念的なものではなく、現実の場でにおいて徹底して行われている。厳密に考えるならば、本来がイデアルな抽象物である幾何学が現実として達成されることはあり得ない。その上でなお、不可能なものに限りなく漸近していく、この徹底した態度こそが《SOLID》に彫刻としての特異性をもたらすことになる。
 石を組み合わせる作業は思考上のパズルという十全に到達され得るゲームではなく、他者である石との関係を所有するための形式なのである。他者との邂逅は貫徹が困難な形式を原理的に貫くゆえに生じ、形式に対する妥協が一切排除された場所だけで獲得される。そうした原理的な場所でのみ自分を理解し、他者を理解する必要に迫られるのだから。能う限り作品の精度が求められるのは、通常の意味での作品の完成度のためではなく、極限の地点でのみ見えてくる自己と他者との関係を求めているからである。
 だが、こうした関係は、見る者がこの原理的な場所に立つことによってしか見えてこない。展示された作品が抱えている、制作過程での作者と素材との交通は、両者の関係が見渡せる地点から望遠するようにして発見できるものではない。目前にある作品を凝視すること、他者である作品と交通することによってのみ見出される。実際、村井進吾は素材の選択と同様、自身の制作について語ることは極端に少ない。ここでは、見る者が自身に内面化できない他者としての作品と交通することが要求されるのである。

 《SOLID》の微細な凹凸をもった表面の質感は――研磨された石の表面が見る者の視線を反射するのと異なり――視線を内部へ進入させようと誘う。しかしながら、石という物質を透視するのは不可能であり、そのために視線は宙吊りにされて表面へ留まることになる。したがって、表面上の接合線が強度をもって知覚され、不可視である石そのものの存在(在り様)を喚起することになる。
 作者は《SOLID》シリーズでは全て、二つの石が全ての接触面で密着する構造をもっており、内部に隙間はつくられていないと言う。しかし、既に存在しまっているものを事後的に見る者は、石の在り様とは決定的に隔離されている。ここでは「見る=理解する(see)」の等式が保証されないままに作品と繋がることしかできないのである。
 この飛躍した繋がりを獲得するためには、作者の石に対するのと同等の誠実さが作品に対して必要とされるはずである。勿論、村井進吾は決して見る者を裏切ることはないのだが、それでも見る行為が石の在り様を完全には把握できない以上は確約はない。作品はいつまで見続けても見る者が自己と同一化することの能わない他者に留まる。
 そうした作品の他者性とは、石の在り様を見ることができる場合であっても、依然として残るものである。《半分の水》では直方体の石の上面の半分が四角錐(《半分の水2》では三角錐)に切り込まれ、その部分には水が湛えられる。石が嵌められる《SOLID》とは違い、ここでは透明な水を通して石の構造を確認できる。しかし、光量差によって水面は鏡のように外界(見る者が所属している場所)を写し出しており、水の内側は写し出された外界の外側として感じられる。見えているとはいえ、石の在り様はやはり見る者とは決定的に隔離されている。
 このため、水面を通して石の在り様を見ることは、見る者が帰属する場所が相対的であることへの懐疑に導いていく。ここでは「世界はこのようにある(あるべきである)」という物語から切り離された、自己に内面化されない他者を作品に見出すことになる。作品の表面は自己と同一視される共同体の境界であり、石の在り様はその外側にある。
 自我が十全に達せられる共同体を出て、外側の世界と交通すること――それが、石に対峙する村井進吾の立っている場所であり、同時に作品に対峙する者が導かれていく場所である。

註 1)講演会(鼎談)「現代彫刻の展開と課題」大分市美術館 2001年4月29日(『村井進吾―思考する石―』展 関連行事)
  2)柄谷行人「交通空間についてのノート」『ヒューモアとしての唯物論』筑摩書房 1993年(初出“Notes on Communicative Space”,Anywhere,New York,1992.)
  3)《SOLID》シリーズは鑑賞者の安全が展示の条件として保証されている美術館・画廊でのみ発表されている。


「藁のかご」 高宮紀子

2016-12-11 09:51:51 | 高宮紀子
◆高宮紀子 「無題」(イワシゲ・30×30×30cm・1997年)

◆2001年制作  (もちわら)

2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご⑨
「藁のかご」 高宮紀子
梅雨にさしかかる頃、大きなダンボールが3つ、家に送られてきました。新潟のYさんから送られたもので、中には重い餅米の実がついた藁がぎゅうぎゅうに詰まっていました。小さな玄関に積まれた箱を見て、その量に呆然とし、この藁を余すこと無く使えるだろうか、と思ったことを思い出します。ひとまず、お礼のメールを送りました。

そもそもYさんから、私のかごのホームページに、「大量の稲藁があるけれど、処分の期限がせまっている、誰かもらってくれないか」と連絡をくれたのが始まりでした。彼女が修了制作のために藁を取り寄せたのですが、実がついた藁が意外に重く、構造が耐えられない、とわかって断念したのです。その結果、残ってしまったのが今回の藁でした。それを引き取ることになりました。
とりあえず、何とかしなくてはと思い、藁細工をやっている柳田利中さんという人を紹介してもらい、技術を習いに行くようになりました。柳田さんの所では、細工用の藁がちゃんと準備されています。天日で干したものではなく、採った後、長い時間蒸した藁で、まだ緑色がたくさん残っています。この藁は送られてきた餅藁と違い、長さが1メートル以上はあるものです。餅藁の方が短いのですが、繊維は柔らかいということでした。

右はオヒツ入れです。編み方を習い、Yさんの餅藁で作ってみました。なるほど、餅藁は柔らかく、繊維が細いと思いましたが、それでもこれほどの大きさのかごを作ると(直径35cmぐらい)指が痛くなりました。なかなか、蓋の大きさを合わせるのができず、幾度か編み直しましたので、できた時は、指の痛みも忘れて感激しました。

藁にはひじょうに柔軟で丈夫な繊維があり、縄をなったり、編んだりすることに向いています。さまざまな物の素材として使われ、その技術も広がりがあります。稈は木槌で叩くと、ひじょうに柔らかくなりますし、そのまま使うことも可能です。身につける物、かご、道具類、敷物など、いろいろな用途の様々な組織構造の形を作ることができます。マブシ(蚕がまゆを作るように小さなしきりがいっぱいついた道具)など、知らなければ、造形作品かと思うほど面白いものもあります。

私にとって、草類の葉や茎、繊維などは続けて使ってみたい、と思うような素材です。そのままでは弱いものでも、よることで縄になり、そのままでも編むことができて、大きな物も作ることができる、その可能性が、自分に合っていると思うからです。なので、藁にはもともと感心を持っていました。しかし、これまで習ったり自分で作ったりはしていたものの、藁細工について固定的なイメージというか、ああ、やっぱり藁だな、という感じを持っていました。ところが、最近は藁という素材に対するイメージが徐々に変わってきて、美しいと思うようになりました。これは、実際にきれいな素材を使ったからかもしれませんが、藁を使っていろいろな使い方、編み方をすることで、藁という素材に対する見方が開けてきたのではないかと思っています。

ただ、新しい造形的な関係へと発展させるのは、また遠い課題です。何も知らない方が、いろいろなことができたかもしれません。民具を作ると、素材と民具との関係の方がきれいに見えて、おいそれと造形的な新しい関係を確立することはむつかしくなるような気がします。この原稿を書くまでに、藁を使った造形的な作品を目指したのですが、ついに時間切れになりました。

この作品は、イワシバと呼ばれる草の葉で作ったものです。中は空洞で、草を重ねた層だけで、できています。草をただ重ねただけではさすがに固定しないので、時々、結んだり、層を草で縫うように進むことで、草どうしがつながっています。イワシバは民具にも使われる材料と聞きましたが、縄をなうのには固く、手が切れるエッジにも油断できませんでした。それで、葉をそのまま使うことにしたというわけです。葉は巾が1cm足らずの長さが1メートルぐらいの平たいもので、細いテープ状の素材です。節もあり、固さも形状も違う藁にはどんな可能性があるのでしょうか。

最近、友人の家で韓国の藁製品を目にすることがありました。小さなかごでしたが、藁製でした。きれいな黄金色で、艶があり、太い稈のまま使ってあるのですが、柔らかそうです。日本の藁とはまた違った感じがしました。韓国の藁細工も面白いとの話ですので、当分の間、藁をめぐっての模索は続きそうです。

「本日は晴天なり」榛葉莟子

2016-12-09 10:00:22 | 榛葉莟子
2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

「本日は晴天なり」 榛葉莟子

 
 郵便局の自動ドアが開いて一歩入ってそこの壁一面に、村の幼稚園児たちのクレヨン画がずらっと30枚くらい張ってある。初めて見たときは一人の子供の絵だと思った。背景が全て空色のベタだった。この子は相当空色が好きなのかしらと、別な意味で一瞬奇妙な関心を持ったけれども、これらの絵が一人一人別な子供の絵と気づきものすごく驚いた。心配性だからいますぐにでも幼稚園に飛んでいきたくなる。一ヶ月ごとに絵は張り替えられていることを知ればもっと驚く。何年経っても空色のベタである。であるといいたくなるのは先生と呼ばれている大人への怒りの気持ちである。なぜ何の疑問もなく決まりきった空色の画用紙が子供たちに配られるのだろうか。分からない。はじめに空色ありきの空色の画用紙を眼の前にして、子供たちはきれいな色がいっぱいの自分のクレヨン箱をのぞいているのだろうか。なんだかそんなことが気にかかるこの頃だ。

 朝、仕事する部屋に行く。カーテン越しの陽は寒い部屋を温めはじめてくれている。カーテンを開ける。カセットのボタンを押す。この数ヶ月同じカセット。民族音楽セレクション8枚組の中の一枚、終末と題しセレクトされた全ての音楽が心地よい。なかでもガムランというインドネシアの楽器のかもし出す音の響きは、百万回聞いても飽きないだろうと思うくらい魅かれる。なにかしら悲しみと喜びの混じりあった深く揺さぶられる神秘の音。その音楽が部屋中にしみわたると、眠っていた部屋はゆっくりと気持ちよく目を覚まし、部屋は新しい朝のはじまり。

 陽が動いて高い窓からきらきら差し込む光の帯線がひとところに止まるほんの数分がある。そのときそこにひとかけらの虹を見る。ありあわせの材料でつくったメモ的オブジェ、ガラス、石、トタン、鉄、木、粘土、さまざまな切れっ端が、ほとんど散乱状態で並んでいる一角。締め切りもなく、縄張りもない、欲するままに表れた産物でもある通過中の物たち。その中のどれかと光とが結ばれて虹がかかる。物陰に隠れていた物に光沢の色彩が生まれる。その時コトリとかすかな音の気配。そんな瞬間、天気と題された西脇順三郎の詩「(覆された宝石)のような朝/何人か戸口にて誰かとささやく/それは神の生誕の日」が頭に浮かぶ。言葉の周囲に透きとおった光の色彩が見えるようで、気になる気配とすぐ結ばれてしまう。虹は動いていく陽に吸い取られるようにじきにすっと消えていく。

 ぶらり図書館に行く。ふと眼にとまった本を一冊だけ借りる。頁を追ううちふと気がついた。というよりも、えっ!と思った。見開いた綴じの隙間から光が漏れでている。天使の話である。見開いた右頁左頁の真中、綴じの奥から光が差し込んでいるような薄黄色いグラデーションがすうっと帯状に染まっていた。次の見開きも次も、前の見開きもつまりこの本の活字が組まれている頁全部光としか言いようのない薄黄色が漏れでている。どんなに撫でさすり、透かして見ても印刷ではない。紙は白。たて組の黒い活字。試しに、本棚から同じような紙質体裁の本を持ち出して何冊かめくった。どの本も薄い灰色がしょんぼり影を落としている普通だった。どんな仕掛けがあるのか分からない。仕掛けなどないのかもしれない。そう見えただけかもしれない。いま手元にないので、もう一度確かめることもできない。けれども確かめはしないと思う。綴じの隙間から翼をつけた小さな生き物が、次々と宙に舞っていく妄想が広がる。だからもういいと本を閉じる。そこから先は自分の翼を開けばいい。

 脇目もふらずに読み通すという本はまれだ。長編ものなどはまったくだめだ。まれにはあった。夢中になって読み終わったとき白々と空が明るくなっていたというのは、ずっとずっと昔のことだ。だいたいが途中で脇目をふりたくなってしまう。だから短編がいい。短編の作者は長生きをしていない人が多いという。短編が好きな読み手はどうなのだろう。と妙な想いが浮上してきたので、ストーブに薪を足す。冬は火が身近にある。すぐそこでボーボーパチパチ燃えている音がする。暖かい。

 以前庭で、もういいと思ったので過去に造った諸々を燃やした。燃やすことにもったいぶった意味はなかった。もういい。それだけだった。思いがけなく炎が高く立ち昇ったのでぞっとした。めらめらと燃える炎の赤が素の色を吸い上げていく。その様がきれいだなと思った。そして物体は炭化。ちょと動かせば崩れる寸前のはかなく柔らかい姿。つくずく眺めていると「やめろ!」と夫の声がした。やりとりがあって結局中止した。あれからずっと、いくつもの物体は廊下の奥、逆光のなかディテールの消えたシルエットがひっそり林立している。それは静止し瞑想する樹木への変身。

「FEEL・FELT・FELT-造形の楽しさ-」 田中美沙子

2016-12-06 11:28:40 | 田中美沙子
◆田中美沙子 “Rvins”羊毛・シュロ・石 1992年

◆田中美沙子 “COL ONY” 90×130×10cm 
羊毛・綿布・麻糸・鉄線   1999年

◆ノルウェー  “ワークショップ風景”

2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

「Feel・Felt・Felt-造形の楽しさ-」 田中美沙子

 ●記憶の色、 響きあう色
 両親の故郷がある長野で過ごした小学生の頃、山の火口まで登ったことがあります。普段そのような機会は少なかったのでその時の印象は今でも心の奥に残っています。火口の水の色はエメラルドグリーンをしてとても美しく、現実ばなれしたその雰囲気は何処か見知らぬ世界に迷い込んでしまったようでした。私の作品にブルー系が多いのはその時の印象が強烈に残っているのかもしれません。作品の場合色の効果は大きな割合をしめます。四季の移り変わりや身近にある素材が、雨や風を受け時間と共に変化して行く色はたいへん美しく、それらは私に創る喜びを与えてくれます。原毛の色は絵の具におきかえられます。水で解いて淡い色や混色を作るように、原毛を手やカーダーで少しずつ混ぜ割合をかえて行くと、色のパレットは限りなく広がって行きます。上下左右の色が絡み合い縮じゅうされ色と色は響き合い、時間の経過と共に魅力ある深い色へと姿を変えていきます。フェルトの色の魅力はこの変化するおもしろさにあると思います。そのため空気を含んだ原毛の色と、絡み合いフェルトになった色はおのずと異ってきます。イメージの色は心に浮かぶインスピレーションをスケッチをしていく感覚で次々と作って行きます。色の背後には感情やメッセージが存在し、組み合わせにはおもいがけないストーリが生まれます。草花の命の色に一生をかけ取り組まれた、志村ふくみさんの色彩観の言葉が思いだされました。 『初めに光りと闇があった。そして光りのかたわらに。黄がうまれた。 闇のかたわらに、青が生まれた。 赤は私達生命の内なる源、血の色。すべての根源であるからほんとうは見えない。ほんとうはこの世にはない色。天上の色。そして黄と青、光と闇が一つになって地上の色、みどりが生まれた.』(モダニズムの建築・庭園をめぐる断章 新見隆著 淡交社)

●不思議なちから
 自然界には沢山の面白い造形があります。たまたま友人からスズメバチの巣を見せてもらう機会がありました。その外皮の見事さにひかれ内側はどのようになっているのかたいへん興味がわきました。そんな折りINAXギャラリーで蜂の巣を集めた展示を見る機会があました。そして巣の内側を見る事が出来ました。それらは6角形をした沢山の部屋が集まり何層にも重なる巣と、全体を覆っている外皮から出来ていました。外皮は濃淡の色調をしてまるで平安時代に流行した雲繝(うんげん)手法を思わせる見事な鱗(うろこ)模様や、墨流しなど工芸的な美しさがありました。樹皮や朽ちた材木を細かくかみくだいてチップ状にしたざらざらした風合は、まさにパルプで作った洋紙の家です。層と層は捻(ねじれ)の柱でつながり外皮はあつく覆われ防水構造で、部屋の温度を一程に保つ役目もしていました。6つの部屋は互いに壁を共有し固く結びならび、細小で最大効果の配置をしていました。コルビジェは家は住むための機械と言いましたが、蜂にとっては社会や国家でもあります。そのような見事な住まいも秋が過ぎると蜂たちは死に、新女王バチが誕生し、命をかけて作った巣も一年で捨ててしまい又新しく作るのです。当時この展示を見て巣の構造やそのパワーに感動し作品にしてみたいと試みました、なかなか納得の行く表現には至らず何時の日か再びチャレンジする事があと思います。

●変容する作品
 フェルトを始めて15年が過ぎようとしています。スタートした当時は、参考資料が少なく、くり返し試みる中からその方法がつかめてきました。とくに立体の作品は、イメージを形にするのが難しく簡単に思い通りには行きません。厚み、素材、縮じゅうを変えて試みる中から体得し次が見えてきます。はじめの頃優しい羊毛をフェルトにする事で、優しさと反対の強さが表現出来ないかと考え、石の持つごつごつした固まりや自立する塔など心象風景として作品にしました。土で出来た物や単純で力強い造形にひかれパワーを感じられる物に憧れます。そこには生きるエネルギーの源が感じられるからです。それは、無意識の内に作品の中に取り込まれ、羊毛を使いながら土の素材で作っていく感覚でした。何処までもつづく広い大地やなだらかな草原の起伏をイメージし、レリーフで表現した作品など体力がとても必要となりました。年を重ねると共に作品の方向も変化してきました。フェルトをする以前織物をしていた私にとり、身の回りの簡単な道具と全身の感覚を使い羊毛が平面そして立体へと変容して行くプロセスは、驚きと魅力をたいへん感じました。過ぎ行く時間の中から生まれる、鉄の錆やコンクリートの剥げた様子にハットする美しさを感じ繊維とかなり離れた素材の木や、石、鉄、を造形に取り入れて、表現の広がりと未知の可能性を試みました。人と人も話題や価値観に共通性があると会話が弾むように、素材の特色を良く理解し、話題を何にするか決めテーマを進めていきます。その時々強く五感に感じたことを素直に表現することで、なにかメッセージが伝えられれば良いと思います。何時もなにかに感動する気持を持ちつづけ発見する楽しさは、次への作品への思いにつながって行きます。何でも機械で作れ簡単に手に入る現代、自分の手で工夫し生み出す喜びは、その人のみが味わえる満足感でしょう。しかしその過程で失敗はつきものです。これらを積み重ねつづけて行く事で完成への喜びもいつそう膨らみを増すことでしょう。

『すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。きこえるものは、聞こえないものにさわっている。感じられるものは感じられない物にさわっている。おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。』(一色一生 志村ふくみ著 求龍堂)
 志村ふくみさんの一色一生に書かれたノヴァーリスの言葉が浮かんできました。
                 
●ノルウェーリポート
 2人で参加したワークショプは、各々違う講座を受ける事になりました。申し込みが遅く希望したものは参加できず、イギリス人のフィリップオレーリさんのニードルマッシーンのワークショップを受ける事になりました。機械を使うのはあまり気乗りしない反面どんな機械なのか興味もありました。10人のメンバーは私を含め韓国の大学生、ヨーロッパやキルギスタンなど様々な国からでした、メンバーの自己紹介からはじまりフェルトに使われているアジアの模様や、ワークショプのデザインの説明は辞書を片手にスタートしました。各自の机にはスチロールの板が置かれ日本から事前に用意した柔らかな縮じゅうのフェルトをアルファべットにカットし、原毛の上に置きます。私は自分の名前のMを使い、文字の持つリズムをデザインしてみました。制作方法は、十本の鋸状の針を持つ卓上の道具を使いスチロールの位置まで突き刺して行きます。針が鋸状のため繊維が原毛にひっかかり層の奥まで届き絡みます。売店にはこのための一本の針も売られ、これを使いレリーフや顔など立体も作っていました。その後沢山の針を持つモーター付きのニードルマシーンで全体を一体化します。この機械は重さが12キロ以上あるので私には操作操がたいへんでした。日本では以前からこの方法を使い工場でフェルトが量産されています。最近では、ファッションの分野で異素材の組み合わせなどおもしろい布を見ることができます。フィリップさんの作品は工業用のフェルトを多重にして穴をあけデザインしたカラフルなタピストリーを作っていました。フェルトは大きなサイズや厚みのあるものを作るのが大変です。歴史のあるところでは、道具や加工方法などフェルトに作りやすい材料の開発がなされています。また量産とハンドメードの融合は、日本と比ベー歩先を進んでいると思いました。一週間も何時の間にか過ぎ、ワークショプも終わりに近づくと教室の壁には作品が並べられ、自分の興味のある場所を見学し互いに質問などかわしました。最終日は大ホールに集まり閉会式です、お世話になった人達に羊の燻製がプレゼントされ、ノルウェーの民族衣装を身につけた人達のすばらしい歌声に聞き入った後、各々毛糸の玉を手に持ち出来るだけ遠くへ投げ糸を絡めあいました。そしてフェルター達の友情と発展を願いフェスティバルの幕が降ろされました。