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「文化を乗り越えるために-シャ・シャ・ヒグビーの活動から-」松永 康

2016-12-04 13:17:39 | 松永 康







2002年1月20日発行のART&CRAFT FORUM 23号に掲載した記事を改めて下記します。

 「文化を乗り越えるために-シャシャ・ヒグビーの活動から-」 松永 康

先日、東京テキスタイル研究所のギャラリーで行われたシャシャ・ヒグビーのパフォーマンスを見てきた。暗い部屋の中には、さまざまなオブジェが所せましと置かれている。照明係も観客のあいまで操作しているため、その動きと光の変化が同時に目に入ってしまう。さらに観客と演者とのあいだにほとんど距離がないので、この空間に居合わせたすべての人や物が舞台を構成する脇役となってしまうのだ。もしこれが他の空間であったら、このパフォーマンスに対して私はまったく違った印象を受けただろう。おそらくヒグビーは、表現を行う場所や集まった人々に応じて、そのたびごとに異なる意味や物語を生み出しているに違いない。
シャシャ・ヒグビーは、カリフォルニアを拠点として活動を続けているドイツ系アーティストである。若い頃、インドネシアや日本、ビルマ、インドといったアジアの国々を旅し、それぞれの文化について学んだ。そうした経験をもとに、アジア風の衣装や仮面を作るようになったのだそうだ。彼女が身に着けている漆塗りの仮面にはどことなく仏頭の面影が残っているし、波打った羽の模様にはジャワの影絵のシルエットも思い出される。また、その緩慢な動きからは能の立ち振る舞いさえ感じさせる。
ある現代織物作家は、彼女の作品について次のように書いている。「現代織物作家がそうであるように、ヒグビーも自分の表現の素材をいかに独創的に扱うかを追求している。試行錯誤の末に辿り着いた粗野な制作技法に、彼女は伝統的な東洋の着衣方法を組み合わせたのである。」(Beth Carter "Costumes of Mystery, Refuge, and Inspiration"より)
たしかにヒグビーの作品には、アジアにおける伝統芸能の要素を随所に見出すことができる。それらの様式が作品の中で入り混じり、ひとつの混沌とした世界観を形成している。さらに、そのアジア風の仮面と衣装を纏っているのが他ならぬゲルマン人の肉体である。そうした異文化の断片たちは作品の中で個々のアイデンティティを失い、パフォーマンスという時空間において一個の混血種として再生されるのだ。私は、異文化混交に対するこうしたヒグビーの方法論に強く興味を引かれた。
言うまでもなく、私たちはたくさんの文化に囲まれて生きている。人に会ってあいさつすれば、皆同じようにあいさつを返してくれる。アントニオ猪木ではないが、あいさつしたとたん殴られたのでは安心して外も出歩けない。もし私たちがこのような共通の文化を持たなかったとしたら、共同体の存続さえおぼつかないだろう。こうした状況を見る限り、文化は私たちの生活に利益をもたらすことはあれ、害になるようなことは何もないように思われる。
戦後、日本は戦勝国側の政策により伝統的な文化を捨て、欧米の文化を積極的に取り入れるように導かれた。そのため、国内の文化活動を保護するための社会制度はほとんど整えられることがなかった。ところが、近年になって文化擁護論がにわかに高まり、昨年は「文化芸術推進基本法」なるものまで制定された。日本政府の文化に対するこうした急激な態度の変化は、裏に何か別な意図があるのではないかと思えてしまうほどだ。いったい文化というのはそう簡単になくなるものなのか。そもそも文化を固守するのは本当によいことなのだろうか。このところ、こうした疑問が私の頭から離れなかったのである。

近世から近代にかけて、世界中の国々は国境のせめぎ合いの歴史を繰り返した。国家を構成する国民は、共同体としての意識を高めるためことさらに自国文化を意識するようになった。また権力者たちも、国民の結合をより強めるために文化の保護、育成に力を入れた。そのおかげでヨーロッパでは、小さな国々がひしめき合いながらもそれぞれに特色ある文化を生み出し、またそれらを守り抜くことができたのである。
ところが今日交通機関の速度が早まり、航空路線さえ整っていればどこへでも1日で行ける時代となった。情報網の発達は、世界の情勢の変化に即座に対応することを可能にした。人々は自由に国境を越えて行き来し、他国の人々と日常的に交信している。こうした時代にあって国民を結びつけているのは、あえて言えば国家予算という経済的な絆ぐらいのものである。いずれにしても、国民として共有できる価値観というのは今後ますます薄れていくように思える。
一方で、こうしたかつて人類が経験したことのないような大量の人口移動は、異なる文化どうしの衝突や異文化に溶け込めない人たちへの阻害を頻発させるようになった。自由と平等の王国とされるアメリカでさえ、アングロサクソン系住民の文化的優位性はヨーロッパと何ら変わるところがない。わが国では、今のところ移民の受け入れを極度に制限しているためまだ大きな問題になっていないが、今後移民が増えるにつれこうした異文化との小競り合いは避けられなくなるだろう。
長いあいだ鎖国していたわが国は、他国と国境を接していなかったこともあり、歴史的にも異文化との摩擦を引き起こすことはあまりなかった。適度な距離をもって入ってくる異国の文化はむしろありがたいものとして珍重され、人々のあいだにゆっくりと浸透していった。敗戦後、その速度が一気に早まったために多少消化不良気味なのは否めないが、それにしても海外の情報に対する日本人の好奇心はあいかわらず衰えを知らない。
昨日までごはん食だったのがあっという間にパン食に変わってしまう。それが他国の人には理解できないらしい。「日本人はわからない」これは日本を知る世界中の人々の一致した意見だ。はたして日本人にアイデンティティというものはあるのか。しかし、私はむしろそれを逆に捉えたいと思う。つまり、日本人にとっては、真実もまた局面に応じて変化していくのである。このように、関係の中で真実を作ってゆける柔軟さも鎖国民のひとつの特質だったのではないだろうか。
美術の世界で言えば、たとえば雪舟が生み出した様式などもわが国独自の文化とは言いにくい。むしろ、中国への留学中に新たな描画法に出会い、それを自からの画風に取り入れることで同時代の絵画様式を刷新したというのが事実であろう。明治の開国後は言うに及ばず、わが国の美術史に登場する巨匠たちのほとんどが異文化の様式を貪欲に取り入れ、それらを自分なりに消化して独自性を築き上げてきたことがわかる。
しかし、芸術活動におけるこうした展開のさせ方は、今日ではどちらかというと消極的に捉えられがちである。むしろ他から隔絶し、独自の観点から表現を編み出してゆく姿勢が評価される。これらもまた、欧米の近代的芸術観に根を発する考え方である。もちろん他人の表現をそのまま真似た作品がよいはずはないが、かといって人間の創造性というのは本当に何もないところから突然湧いてくるものなのだろうか。

今、世界中が戦争の不安に揺り動かされている。
 かって戦争と言えば、植民地や資源の搾取といった問題に端を発するいわゆる「経済戦争」であった。しかし、昨今報道をにぎわしているイスラムのテロやイスラエルとパレスチナの戦いなどは、領土や経済に関わる争いとは異なり、宗教や民俗の違いといった精神的なこじれから始まったものである。その意味で、今日世界で行われている戦争のほとんどは「文化戦争」と言うことができる。
経済戦争であれば、どちらが勝っても責任者の処罰や補償金のやり取りによって解決のしようがあった。しかし文化戦争というのは、そもそもがプライドどうしのぶつかり合いであるから、そこで負けたら自分たちのアイデンティティそのものが失われてしまう。だからこそ、この種の戦争に終わりはないのだ。
イスラムの人々にとって、大衆を食い物にするアメリカ流の資本主義が受け入れられないのは当然である。また、裕福な者が貧者に施しをしてあたりまえとするイスラムの常識をアメリカ人が容認できないのもよくわかる。いったん気に障りだすとすべてが腹立たしく思えてくるものだ。アメリカ人のネクタイが憎くけりゃアラブ人の頭のハイクも恨めしい。坊主に憎けりゃ袈裟まで憎い、これが文化戦争なのである。
芸術家は、自分が抱えている文化の隙間に、自分にないものを滑り込まそうとしてきた。しかし文化というのは空気のようなもので、それが何でどこにあるのかさえなかなかわからない。だからこそ芸術家は自分探しの旅に出る。異文化の中でさまざまな違和感と遭遇しながら、自らが抱えていた文化を少しずつ発見していくのだ。
芸術家は、ときに自分が抱えてきた文化を捨てなければならなくなることもある。しかしそれらは身体の奥深くに刻み込まれているので、そう簡単に消すことはできない。それを相対化するため、異文化の作法をいちど身につける必要が出てくる。時代錯誤の感はあるものの美大受験の石膏デッサンなどはそのよい例だ。身体と思考の訓練により文化の呪縛から理性を開放させ、客観性を獲得してゆくのである。文化の発見からその再生まで、そこには気の遠くなるような道のりがある。

ヒグビーの声明文の中で次のような記述が目に止まった。
「パフォーマンスの動作を探すために、私は手を使っていろいろな材料からものを作ります。手作りの衣装のそれぞれの断片は私のパフォーマンスの導入口です。小道具や支柱なども含めて、衣装一式ができあがるのに2年近くかかります。私は衣装とパフォーマンスを並行して組み立てていくので、逐次、その展開を見ながら2年間充分に思索することができます。しかし、その衣装/彫刻の制作に関わる時間が長くなるにつれて、周囲に置かれる小道具も増えてきてしまいます。私は美しい作品を作りたいと同時に、それらを活動やくらしの中に取り入れたいと思っています。」("Artistic Statement", Sha Sha Higby Homepageより)

文化は人を幸福にもするし不幸にもする。今となっては、これを認めないわけにはいかない。それならば、私たちは文化をいかに幸福のために用いるかを考えるべきであろう。言い換えればそれは、文化を異にする者どうしがよりよく共存していくための知恵である。そして、文化混交による新たな様式を生み出し出会いの場や方法を提案し続けることが、今日の芸術家に果たされた重要な使命なのかもしれない。文化は乗り越えられることで生き続けるのだ。

造形論のために『方法の理路・素材との運動③』橋本真之

2016-12-03 09:44:07 | 橋本真之
◆ 橋本真之『歩道』1971年 鉄 (第一回ときわ画廊個展出品作)

◆橋本真之「歩道」 1970年   鉄

◆橋本真之「坑道」  1970年   鉄

◆橋本真之「坑道」 1971年   鉄  
(第一回ときわ画廊個展出品作)


2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために 「方法の理路・素材との運動③」      橋本真之

 《芒洋の大地》
 友達からナップザックと時刻表を借り、歯ブラシと着替えをいくつか入れ、賞金で買い求めた国鉄の周遊券を、ポケットに捻じ込んで、北海道へ出かけた。関東では、すでに桜が散った後だったが、北に行く列車の車窓から見る景色は、季節を逆にまわしているようだった。桜吹雪のあとに満開の桜がやって来て、五分咲、三分咲の順でやって来た。海峡を渡った北海道の山間部には、まだ雪が残っていた。息切れする足取りでクマゲラの棲む木々の間を行くと、肉片を付けた黒い鳥の羽が雪の上に落ちていた。木々はどこまでも奥深く続いていて、私は夕暮れを恐れた。

 北海道の芒洋としてあてどもない空間を見ると、これまで自分の制作して来た作品空間の質は、ここでは耐え得まいと、痛切に自覚させられた。北海道の原野のような空間において、何を処所に私の密室における机上世界は成立することができるのか?というような、きわめて素朴な疑問にとらわれたのである。旅行に出かけて来る前に、私は鉄の「林檎」に鉄パイプを通すというような作品を作って来たのだったが、その事によって「林檎」の中心に外部の空気を貫通させようとしたのだった。私は造形上の空間意識について、質と量との問いを共に突き付けられた訳だ。そして北海道で出会った人々は、動揺した若い私に強く深い印象を与えたが、それは自らの生の浅さの発見に対する、裏返しの印象だったに違いない。私の動揺は根底的なものとして、私自身をおびやかした。

 友達に借りて来た大きな時刻表は、北海道だけ落丁だった。借りものの時刻表は、役立たずでも捨てる訳に行かなかった。その上、時計を忘れて来た私は、日に何本も来ないバスを、停留所を遠く離れることが出来ずに待たねばならなかった。時計を持たないことによって、常に時間を気にしていなければならぬのは皮肉だった。けれども、そのことが安易に出かけた私の安全を保証していたのに違いなかった。海岸町で、漁師風の男達数人が現われて、彼等もバスを待っていたが、いずれの男も無口で威風堂々として、常に水平線のあたりを見ているような姿に圧倒された。私の苛々とバスを待つ姿勢を無言で正される思いだった。

 東京から旅行に来ていた若い夫婦は、時計を持たずに待ち時間を尋ねる私に、東京では考えられないほど、ひどく親切だった。夜になると長距離列車に乗り込んで、翌朝までの宿としていた私の旅行を面白がって、別れ際に弁当をふたつも持たせるのだった。鉄路の音に寝つかれないまま、朝方駅舎を出て町をうろついたが、歩き疲れて、丘の上の草原で午後のひとときを眠った。私は行き先のあてなどなくて、行きあたりばったりに北海道中を巡っていた。摩周湖は霧で見ることが出来なかったが、エメラルドグリーンの湖水の屈斜路湖を呆然と見た。バスで美幌峠というところを通った。その時、白の上下を着た今年30歳になるという、前歯の一本欠けたヤクザ風の男が話しかけて来て、電車に乗りつぐまでの待ち時間を、食堂やら喫茶店やらを連れまわして、私に話をし続けた。見るからに危険な風体に警戒しながらも、待っていた列車を一本乗り過ごしてしまうほど、彼の話にひきずられた。冬中、雪の国有林に入って親方と二人で内緒で木を切り出していたのだが、山を降りて来たばかりなのだという。「だから今、金はいくらでもある‥‥」と悠々としていた。「君の仕事も正当性のない仕事だ‥‥」男はそう語って、欠けた前歯の間に煙草をはさんで煙を吐き出した。確かに、こんなあてどもない空間では、私の造る林檎は何の力も持ち得ない。彼の言う「正当性」とは造形の問題などでは毫もなかったのだが、私の生をささえる社会との問題であるよりも、私自身の生の根拠を問うところとなれば、それは私にとって造形の問題でないはずはなかった。造形的に解決がつかずには、何の解決にもならぬという私の意志は、あまりに硬直していたと言うべきか?

 春浅い北海道を西に東に北に南に、日に日に動き回って風景を見続けている内に、広大な空間の起伏に立つ木柵や電柱の列が、わずかに人間の作意による空間への仕掛けとして見えて来た。それは社会であり、法律であり、政治であったはずだが、私にとって、ついに造形上の問題であることをやめなかった。おそらく、これが私をささえる根本的な資質なのである。

 北海道中を行ったり来たりした後で、日本海側の小さな島、天売島に渡った。一日に数回だけ出航する、小さな漁船のような連絡船に乗り、波にもまれて焼尻島、天売島と行くのである。私は船酔いしなかったが、それでも足下をふらつかせて島に上がると、島の南端の断崖に天然記念物のオロロン鳥や海猫が無数に巣をつくっていて、そこには私の密室以上に、絶滅しかねない安定を欠いた生が繰りひろげられていた。断崖の上で、私は海を覗き込みながら、強い風にあおられて草の根を握りしめていた。天売島は二時間も歩くと島を一周することができ、行く道が一眺に見渡せるほど小さな島だった。日暮れてユースホステルに帰ると、その年私が初めての客だったらしくて、近所の少年がめずらしそうに私を見に来た。その中学を出たばかりの漁師の少年は東京の話を聞きたがった。乏しい経験きりない私の話にすら、少年は耳を傾けた。私が様々な北海道の人々に動揺させられたのと同様に、その少年もまた、私に動かされたのだろうか?そこに昨日までの私が居た。私にはそのように思えて得心した。

 周遊券の期限が切れる半月がぎりぎり近付いて、帰路についたが、青森県の弘前で途中下車した。話に聞いていた弘前の林檎園を見たかったのである。午後遅くユースホステルに着き、荷物を置いて早速でかけた。林檎の木をめざして、無闇矢鱈歩いて行ったが、林檎園はいたるところにあって、夕暮時の湿度を含んだ空気の中で、白い花がかすかに薄紅色をおびて花ざかりだった。林檎の花の下を歩き続けていると、小高い丘が現われて「林檎公園」とあった。公園には全くひと気がなかった。丘に登ると、暗い雲の下で、あたり一面の林檎の木に、満開の花々が煙ったように咲き渡っているのだった。遠くにたき火の煙が立ち登っていて、若い農婦が一人で一日の仕事の後始末をしていた。ひときわ目立つ山が青く見えていて、それは岩木山だったに違いない。

 北海道の芒洋とした風景を見続けて来た後で、この林檎の木が植えられた見渡す限りの風景は私を圧倒した。しかも、人々はこれらひと花ひと花を育てて、すさまじいばかりの量の果実を収穫するのかと思うと、私を浮き立つような清々しい思いにするのだった。私はどれほどそこに居て見続けたのだろうか?湿度は雨滴を結んで降り始めた。私は夕闇の中の帰路を急いだ。

 翌日の我が家に向かっている列車の中で、我が町を、さぞかし狭苦しく感じるに違いないと思うと憂鬱だった。見慣れた車窓の風景が私を出迎えて、駅舎を出ると、奇妙なことに、我が町は何と広々としていることだろうと驚いた。狭苦しいはずの通りを歩いていても、奇妙に広々とした空間が見えるのだ。私は北海道をうろつき回っている内に、かの漁師達の視線を獲得していて、道の再奥の地平線のあたりに、まっすぐに目を向けて、看板やらショーウィンドのコセコセした物達は無論のこと、家々の壁を越えて見はるかすような遠い視線を持っていた。

 数日もすると、日常の生活に応対している内に、私の姿勢はもとのもくあみに見失われてしまったが、この視線は時として兀然とよみがえって、今でも広大な空間を見る姿勢を獲得することができる。

 北海道旅行から帰って来てからの「林檎・馬糞・乳房」の展開として、正方形の台上の四隅に四つのつぶれた林檎を溶接してあった。不満でしばらく放置したままだったが、四つに熔断して、地面に直接一列に配置することにした。私の物を見る時の空間量が、以前とはまるで変わっていた。北海道で見た棒杭や電柱に習ったというべきだろうか?しかし、その四つの林檎の間隔が問題だった。私は様々な場所に持ち出して、四つの林檎の、空間の質との対応関係を探った。私が歩く時、移動する軸足の接地位置に配置することが、最終的な位置決定となった。縞鋼板のすべり止め模様を生かして使うということは、表側からは直接金槌で叩くことは出来ないので、裏側から突き出すかたちで火作りしなければならないのである。「火作り」とは、鉄を赤熱した状態で叩いて形作ることを言う。

 一方『林檎の肖像』の展開として、つまり等価の構造の展開として、二個の林檎を同時に作り始めた。二個の林檎を同量の鉄板で作るのだが、私自身の集中力の変化、肉体的な疲労、制作手順による感覚変化の微妙な差が形態上の変化を引き起こすのである。その差異を感じ取れる二個の林檎の間の最大距離を求めた。これも又、台座を放棄する方向を取ったのである。北海道の空間のもつ芒洋としたものに向けられていたのではあったが、私にとって、これはまだ二個の林檎の間に放物線を描くような空間の問題であった。当初、二個の林檎にはドリルで貫通した穴があけられた。小さな穴が双方に空くことで、一対の関係は明瞭になったが、形態は強度を失なうように見えた。そして二作目には、一対の林檎のそれぞれに、断面が正方形の管を通して熔接した。これは強度は失わないけれども、あまりに工作的で作為的な形態が、当時の私には気にいらなかった。三作目は形態上の穴を捨て、単に二個の林檎を六歩の距離の地面に置くというものになり、林檎そのものが空間における二個の閉じられた穴となるようなあり方である。もうひと押しできないものかと、四作目もまた、そのような形で作り替えて、『坑道』と題した。いずれにしても、これは芒洋とした空間にいくどもトンネルを掘るような仕事だったのである。このふたつの作品の方位を得た時、私は初めて強い発表欲にかられた。

 さて、読者はこの婁々とした展開に僻易としているのではなかろうか?実のところ筆者ですら僻易としている。今さら若い時代の展開をたどったところで何の益があるのかと、内心苦しい。初めて公的な発表をする大学院生が、試行錯誤の末に、万全の準備をしていたのだ。けれども、私としても、当時を振り返って、認めてやりたい唯一の橋本真之の特異点は、全く孤立した場処から自ら問題を立て、問い続ける力だっただろうと思える。その事実をおいて、あえて自らの造形史を語り続ける意味はあるまい。私の個展は黙殺だった。あたりまえのことである。時代と全く逆を向いて歩き始めた、しかも苛立ちを隠そうともしない若者の仕事に、誰が関心を持つものか。しかも手持ちの古々しい技術。個展会場で「鍛金」と聞いて話の通じる人間は誰も居なかった。「打ち出し」と「鍛造」という言葉で話を通じさせるより仕方がなかつたのである。興味を持って見ていたと思える来場者も、私の話に工芸の臭いをかぎつけると、プイと帰ってしまった。

 私は作品から台座を捨て、床に直接置いて展示することで、広い空間に対して作品空間を開いたつもりだった。一週間、個展会場で北海道の空間を思い出しながら作品を見ていると、台を捨てたところで、結局のところ画廊空間という特殊な枠の中の構成に過ぎないと自覚した。仮に野外空間であったとしても、これでは視界の範囲を枠にして構成することになるのに違いないと思えた。かの広大な視線の前では、空間の凝縮と膨満の中心点を見い出すことが必要なのだ。私はそのように考えた。(つづく)

『手法』について/鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》藤井 匡

2016-12-01 09:37:20 | 藤井 匡
◆ 鷲見和紀郎《FUSULINA Deux-B》100.5×44×4.5cm/油彩・エナメル樹脂・アルミフレーム/2001年

2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》 藤井 匡


 鷲見和紀郎の個展《FUSULINA Deux》(註 1)にて発表された作品は全て「支持体の上に顔料が乗る」形式が採用されており、壁面展示がなされていた。この目の前の出来事に基づくなら、これらは紛れもなく絵画と見なされるだろう。これまでの絵画と呼ばれてきた作品と形式上極めて類似しているのだから。しかし、そのように見るときに、見えなくなるものがある。それは、これらの作品が「鷲見和紀郎」という固有名のもとで呼ばれることと結びついている。
 美術におけるジャンル――絵画・彫刻・それ以外といった――は、多様性をもった作品を分類し整理する機能を備える。その意味での有効性はありながらも、そうした分類を前提として作品を見るならば、確実に見失われるものがある。それは、その作品が何故、作者名・作品名という固有名をもつのか、という問題である。(註 2)
 その作品が固有名で呼ばれる必然性は、作品を導いてきた固有の歴史の中にある。それを確認する必要性は、オリジナリティという他律的な価値を見いだすためにあるではない。他の何にも置き換えることのできない何かがあることを確認するために必要となる。

 《FUSULINA Deux》の表面は以下の手順によって制作されている。まず一方で、油絵具を混ぜておいたエナメル樹脂によって金属(一部はキャンバス)の上を覆っていき、支持体の上には樹脂の厚みを出現させる。そして他方では、こうしてつくられた表面を研磨し、下層にある色彩を表へと露出させていく。この二つの作業を反復する中から最終的な表面が取り出されてくる。その際に表面上に位置する色彩によって、茫洋としたかたちが知覚されることになる。
 表面の研磨は、これまでの作者の彫刻(床置きの作品)でも行われていた作業だが、今回は彩色を仕込み表面上にイメージを立ち上げることから、表面は二次元へと変換される。こうした変換が作品を絵画的に見せる最も大きな要因となっている。しかしながら、この表面は積極的に二次元=平面という認識からはみ出そうとする。
 緩やかに湾曲する表面は視線を中心から周囲へと引っ張っていき、金属フレームの存在を強く意識させる。同時に、表面の膨らみは裏側の存在を想起させることになる。こうして実在感がもたらされることによって、作品を取り巻く空間は抽象的なものとは感じられなくなる。作品が展示される壁面は建築の一部分であり、外側(壁の裏側)にも空間が実在するものとなる。こうした空間の出現が、作品の二次元=平面というフィクションを破壊する。
 また、表面の色彩は塗られたもの(支持体の上に平行に置かれたもの)ではなく、塗布と研磨とを往還する中から出現したものであることも作品の実在感に寄与する。ここでの色彩はエナメル樹脂の厚みと強く結びついており、色彩の違いを追う視線は平坦に流れるのではなく、表面を滑らかな凹凸をもったものとして知覚することになる。作品の表面はイメージを生みだすと同時に、エナメル樹脂の物質性を主張する。
 したがって、これらは絵画的な形状を持ちながらも、彫刻の表面を巡る問題意識から演繹される、彫刻の延長にあるものとも見なすことができる。表面の表面性が独立的に取り出されている彫刻。そして同時に、その表面は絵画的なイメージをも産出する。
 彫刻であって絵画であるもの、あるいは彫刻と絵画との中間にあるもの――絵画・彫刻という分類に固執するならば、おそらくはそう定義されるのだろう。しかし、分類が前提にあるのではなく、表面に対する問題意識を巡る様々な要素の関係が織り込まれて《FUSULINA Deux》の存在様態は決定される。こうした表面の固有性は固有の歴史によって導かれてきた。

 《終わりなきヴェール》(1999年)は鋳造アルミニウムによる楕円形の幕(ヴェール)が立てられた作品である。表面には滝のように流れ落ちるイメージを喚起する水滴のついたようなテクスチュアが与えられ、裏面には黄色が塗装される。
 楕円形は二つの弧から構成され、一方には外側に表面・内側に裏面、他方には外側に裏面・内側に表面が設えられる。表裏の面が途中で反転するために、この幕は作品の内側と外側とをメビウスの帯のように繋いでしまう。ここでの表面は楕円形というかたちを喚起するするものではなく、作品の内側と外側とを横断するような表面自身の連続性をつくりだす。
 このヴェールとしての表面とは特異な位置をとる。自立できない(固有のかたちをもたない)ヴェールという認識は背後を持たない表面だけが存在する状態を示す。実際に《終わりなきヴェール》の前に立てば、意識は表面の向こう側にではなく横方向へと連続的に流れていき、楕円の湾曲に沿って立つ位置を変えながら見ていくように誘われる。
 こうした表面への着目は作者の経験に基づく――〈私は金属を長く扱ってきて、いかに表面が重要であるか気づかされました。空間性はもちろんのことですが、彫刻とは表面である、と言っておきましょう。〉(註 3) 1980年代以降の鷲見和紀郎の制作の中心を成してきたのが、金属鋳造による彫刻である。この間、ワックスや石膏による作品も制作されているが、これらの素材も鋳造の「原型-鋳型-鋳物」という地点から導かれる。鋳造では最終的には原型の最も外側のみが提示されるため、制作の時間と意識とは表面へと収斂する。「彫刻=表面」の認識は、鋳造という技法を内省的に問うことに由来する。
 《終わりなきヴェール》の原型は、最初に弧のかたちを発泡スチロールでつくり、そこにワックスを使って表面のテクスチュアを生みだしていったものである(その際の裏側に当たっていた部分が黄色く着色されている)。つまり、このワックス原型そのものが引き剥がされた表面なのである。そうした表面が、アルミニウムに鋳造される(更に表面が引き剥がされる)ことで表面の表面性に更に強度が与えられる。
 半透明なワックスでは幾らかの視線を内部へと導くものの、その原型が金属に置換されたときには視線は表面において徹底的に弾き返される。そのために視線は奥にではなく、表面の湾曲に沿って横へ横へと繋がっていく。楕円形の内部はそれ自体が量塊となって立ち上がることはなく、作品によって周囲に彫刻的な空間が出現することもない。ここで視線は表面の奥に量塊を知覚するのではなく、表面の表面性に留まる。

 《FUSULINA Deux》の表面は《終わりなきヴェール》の表面の延長上に位置する。それは、鋳造の意味が問われてきた場所の延長である。
 《FUSULINA Deux》の表面上のイメージは、フズリナの化石を内包した石塊の断面に類似する。フズリナとは約3億年前の地層から発見される紡錘形の虫の化石であり、かつての作品《FUSULINA》(1999年)――ここで使用される石膏は鋳造の際の中間素材であることから析出される――が紡錘形を採った際に名づけられた。形態に関しては《FUSULINA Deux》でも紡錘形のフレームが与えられる。そこから、更に問い続けることによって、形態だけではなく表面の在り方や研磨という手法とも関係を築くことになる。
 岐阜出身の作者は子供の頃に大垣市の金生山でフズリナなどの化石を採取していたという。割り出した石灰岩の表面を研磨して化石の断面を露わにしてゆく作業の記憶が作品の手法に重ねらるが、その記憶は利用可能な中から任意に取り出されてきたものではない。ここでの化石は〈気の遠くなるような時間のなかで、生物が固形になる自然の鋳物〉(註 4)と読み替えられており、その読み替えは〈金属を長く扱って〉きた経験によって可能となる。鋳造という技法を内省的に問うことによって、化石と作品とは結合する。
 通常、金属鋳造は彫刻を成立させるための一過程に過ぎないもので、彫刻の下位に従属している。しかも多くの場合は発注される過程であり、制作として意識されることすらないケースもある。その鋳造を内省的に問うならば、作品は通常の彫刻と呼ばれるものを突き壊していく。作品にジャンルとしての絵画・彫刻を覆い被して見るならば、この固有性は消失する。逆に作品を絵画・彫刻の外側に置くならば、問われてきた歴史を見失わせる。この、類に解消できないものがあるために、ここには個としての作者の名が冠される。
 作品の通ってきた歴史を追うときに、作品の単独性が見えてようになる。そして、作品を見ることによって破壊されるのは絵画・彫刻といったジャンルではなく、そのような分類に従属して見る者の、立っている場所だと知らされる。


註 1)鷲見和紀郎《FUSULINA Deux》2001年3月31日~4月21日,島田画廊(東京都世田谷
   区)
  2)下記のものを参考にした。
   柄谷行人「単独性と個別性について」『言葉と悲劇』第三文明社 1989年
  3)「[特集]現代彫刻の発言」『BT美術手帖』1988年6月号
  4)「Ars/Technae|創造の現場から[11]鷲見和紀郎」『BT美術手帖』1999年6月号