このブログを始めて10年が過ぎた。書く内容を見てみるとだんだんと簡略になり新聞記事が多くなってきている。目も見えにくくなり間違ってしまうことも度々。認知症予防もかねて書き始めたブログだが、最近これでも書いている意味があるのか?と思うことしきり。
さて、そうは言ってもこの記事は残しておきたい。
私が住んでいたところから一筋東のところに落ちた爆弾。その時母は1歳の私を背負いコンロの前にいたらドーンという音と同時に体が飛び上がったと話していた。
表通りの家の大屋根に大きな石が落ちてきて夜になると沢山の死者が出たらしいと聞き、近所の方が見に行かれ悲惨な現状を聞いたと話していた。
戦時中には梯子を屋根にかけバケツをリレーで運び消火訓練をしたことや、終戦まじかになると空襲警報がなっても逃げるのも嫌になり私を抱え一緒に布団をかぶって過ごしたと言っていた。
お米がなかったときは「コーリャン」をよく食べていて、話し始めた私がよく「コーリャン、コーリャン」と言っていたそうだ。
食料調達のために戦争に行っている夫の弟を頼って滋賀県まで行った時に言われた言葉に悔しい思いをしたことや、ヤミ米を仕入れにいき帯の中にまで入れたお米が気づかれないかとヒヤヒヤしながら、背負った私が泣かないかと不安いっぱいで列車のなかで過ごしたことなどを折りに触れ話してくれた。
戦中、戦後の苦労は今の私たちには考えられない状況だったのだとつくづく思う。
そして又、もしあの西陣に落とされた爆弾が一筋目西の通りに落とされていたら今の私は存在してなかったかもしれない。