・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

耕す

2012年01月16日 | つぶやきの壺焼

「たがやす」は、耕す←田をかやす←田を返す←田畑を掘り返すことだと思っていた。
土に筋目の付く機械に乗ってで行ったり来たりしただけで、それらしい模様がつけば、もう耕したことになるのだろうか。

耕作にも流儀があるから、余計な斟酌は無用としても、筋の付いた畑土をじっと見ていると、こんなものなのかなあという思いは去らない。

土が軟らかければこれでいいんだよ、とどこからか声が聞こえてきそうだが、やはりそうなのかなあと思う。


名称

2012年01月15日 | つぶやきの壺焼

この花の名を知らない。

K'sBookshelf に花の図鑑・蕾の図鑑・実や花後の図鑑というのがあって、色合いと形から探りあてれば、これではないかぐらいのところまではたどり着ける。
http://ksbookshelf.com/DW/Flower/

どうやらこれは、ユリ科のアルストロメリアらしい。

外来種の花の名はカナ文字が多いから覚えにくい。
意味とのつながりが見つけにくいから暗記しか手はない。

名前を知りにくくても、覚えにくくても、花は美しくあればよいが、国を預かるだいじな職務の名前が紛らわしいのはよくない。普段の生活にかかわりがなくても、よくないことはよくない。

改造内閣発足という見出しで、「最強布陣」と銘打った名前が新聞に載った。
通常、大臣の職名には○○大臣という表現が用いられてきたが、どういうわけか、この記事にはそれがない。
大臣と呼ぶにはあまりにもお××な顔ぶれが混じっていて、そうは呼びにくいのか。

わかりにくいようでいて意図が見え見えのような、奇妙な職名あるいは略称もある。
「国家公安、消費者、拉致問題」と書いてある。
国の治安維持と消費者の生活と拉致の問題、共通点は静かにしていてほしいということにしかない。

これでまあ なにをなさるか不安増し
世のことは知らぬが花と 笊叩く


標識

2012年01月14日 | つぶやきの壺焼

標識ははっきり見えるのがよい。
はっきり見えるのはよいが、直感が働く前に、謎解きをさせるのはよくない。
なんだこれは、と思わせては標識の機能が半減、場合によっては逆転ということもある。

畑に車を突っ込まないでほしいという目印も、夜には見えないだろうと思ったが、そうか夜光性なのか、この標識は。

夜行性のドライバーから夜光性の標識で畑を護る。
安全を望むのは、素っ頓狂なドライバーの身の安全ではない。作物の安全だった。


待つ

2012年01月13日 | つぶやきの壺焼

夕日を見ようかと足を伸ばした三崎港、だが雲に遮られ機会はずれ。
洩れたように差すわずかな光芒のみ見て帰る。
1時間に1~2本のバスにはだいぶ時間があり、ゆっくり散策。

とびの群れも電線に止まって何かを待つ。
高圧が好きなのと低圧を好むのと、そんなのがいるとは思わないが、なぜか高い位置にずらっと並ぶことはしない。
着かず離れず、でもない。
乱視の眼にはよく見えないが2羽重なったのもいる。
元気がよいのか、待っていられないのか。

ちょっと覗いて時間つなぎ、という店もまだ開いてない。
少し方角違いのバスが来たので飛び乗る。
早く座ってくださいと運転手に催促された。
夕暮れ時には、人も鳥も、待つことを嫌うらしい。


端正

2012年01月11日 | つぶやきの壺焼

風景が投げやりに見えるときと、落ち着いて見えるときがある。

門構えを気取った家の姿でも、投げやりのものは見苦しい。
トタン外壁の、裕福そうには見えない家の様子も、整っていれば見るものの心を穏やかにしてくれる。

どんな飾り立ても、こけおどしも、整っている姿に敵うものではない。


まつる

2012年01月10日 | つぶやきの壺焼

祭るも祀るもまつると読む。
人々は祭ることにはすぐその気になるが、祀ることはあまり気にかけない。
祭りごとには参加したがるが、政はひとまかせにしたがる。

口の下をまつると静かになるねえと、祖母がよく言っていたが、あのまつるはどの字だろうか。

小さなちいさな、何度もその前を通ってやっと目に付いたような小社がある。
新しく整えられた歩道から、いくらか下がったこの狭い平地に向かって、主歩道と同じように舗装され丁寧に作られたランプがある。
どこに行くのでもない、お宮のある平地への上り下り、下りが先では言いにくいから、のぼりおりと言っておくが、それだけの道なのだ。

祀る気持ちを粗末にしないために作られたと思えば、税金でどうこうなどとはわざわざ考えない。
祀りの効用か。


領域

2012年01月09日 | つぶやきの壺焼

領域と呼ぶからには、確保という手段が必要である。

侵略、侵害に耐える領域確保には、物理的な誰の眼にもわかる標識がいる。
歴史上などという絵空事のようなことは、違う歴史観の前にはまったく役に立たない。

街中でさえ、たとえ2台分の駐車領域であっても、誰にもその場所を使わせずにおくためには、おやおやと思うほどに目立つものが立っていなければならないのだ。

もし国が威信をかけて守りきらなければならない領域であれば、その措置は国が実行しなければならない。
国を治める者が、平和友好などという経文の端切れのような熟語を並べるだけで、誰かがやってくれればなどと手をこまねき、そ知らぬ顔をしているのは怠惰でしかない。
それこそ侵害者にとっては思う壷なのである。


錯覚

2012年01月08日 | つぶやきの壺焼

路地を歩いていると、同じような風景を見かけることがある。
トタンの塀も年季が入ると風景になる。

初めての道で、赤く塗ったというより、赤く剥げた塀を見かけたとき、あれ、またここに出たかと思った。
いや、違う。赤い塀の端に、赤が主色の看板のある様は同じだが、前に見た場所はここではなかった。
赤い看板は、赤い塀に釣り合うと思って貼り付けられるのか、並んだ姿がそっくりなのだ。

夢で同じような道を歩くことはときどきあるので、これは夢ではないかと妙な感覚を覚えた。
だが、夢ではなく、錯覚なのだ。
錯覚にも有害無害いろいろあるが、こういう無害な錯覚は、むしろ楽しい。


季節の終わり

2012年01月07日 | つぶやきの壺焼

松の内に終わりの話でもないが、作物の季節が終わると残骸が出る。
だが、そのまま土に帰って、また次の作物を育てるものは残骸と呼ばないほうがよい。
いくばくかはそのつもりで作られたもの、それはそれでよい。

しかし、自然の気まぐれから作られた、あの残骸たちはどうなるのだろう。
山のように積まれ、帰る場所はない。もともとない場所は、地球上には見つけようがないのだ。
風化を待つには、永い永い年月が必要だ。
急いで動かし積み上げてみたところで、糊塗のそしりを免れることはできない。
焼いて煙にしてみても、いずれはどこかに舞い降りる。

ネバネバの掛け声だけで、ことは片付きはしない。


よければ

2012年01月06日 | つぶやきの壺焼

「よく言う」とはどういう言葉かとFAQに質問が出ていた。
ふた通り意味があって、細かい説明は興がそがれるのでやめておくが、ひとつは人物評価の否定表現の部品として、もうひとつは他者の発言への揶揄として用いられる。
どちらなのかは、その後に続く言葉、あるいは言われた状況を知らなければ判別が難しい。

似た言葉に、と言いたいところだが、まったくそうでない意味を持った言葉がある。
標題のとおり「よければ」とかなで書くと、もしよろしかったらという意味と、「除ければ」という意味のどちらにもとれる。
ある地方の人が言うとこれが同じ発音になる。

こんなことをぐずぐず書き出したのは、駅の階段でふと上を見たとき、型鋼梁の端部に仕組んだ鳩除けが目に付いたからである。
おお、こんなところまで気遣ってと感心したのと一緒に、「よければ」にまた違う意味が見つかったからだ。

鳩が止まりそうなところに針金を何本も立てて鳩除けにしてある。
電柱の上などのは、鳩よりマイナス十の烏が相手のようだが。

鳩はどこか止まれるところはないかと探し回る。
足がかかればしめたもの、針金などひん曲げ、よけて止まればよい。
それらしいところが1箇所あった。

鳩にしてみれば、針金でよければ、針金をよければよいのだ。


伐採

2012年01月04日 | つぶやきの壺焼

伐採は乱暴な行為に見えるときもあり、だいじなことに見えるときもある。

通りすがりに見かけた伐採の後、これが「後」と呼ぶのがよいかどうかは、調理の後始末を料理という行為に含めるかどうかに似ている。
台所に入って後始末をしないのは、ただの煮炊きで、料理ではないと思っている。
と、えらそうなことを書いても、だからあまり手を出したくない理由になっていれば、なんだそれ、ということになるのだが。

大きな切り口が一つだけ空を仰いでいる。むやみに背の高い切り株。
なぜこんなところからばっさり切るのか、そう思ったが、よく見ればこれは樵のいたずらだったか。
いまは切り口が上を向いているが、何時間か前、切り取られるまでは180度逆向きだったのではないか。
切り株をゆすってみればはっきりするが、そんなことをしていて樵の逆鱗に触れ、チェンソーでも振り回されてはかなわないからやめておいた。

 


画風

2012年01月03日 | つぶやきの壺焼

ポンチ絵を上手に描く人がいる。
誰でも真似ができることではない。練習でできることでもない。天与の才能なのだろう。

そういう巧い絵には、一見ポンチ絵のようでも、そんな呼び方をしては失礼なものもある。
画風というのだろうか。

道を歩いていて、ポンチ絵のような風景を見つけることもある。
描いた絵ににじみ出るのが画風なら、風景そのものの性格は何というのだろうか。
"景風"では字を入れ替えただけで、そんな言葉はないと言われそうだ。

季節外れのタンポポをときどき見かける。
タンポポに言わせれば、季節外れではなくいまが咲きどきかもしれない。いま咲いて種を散らして春にまた咲くつもりかもしれない。

畑の端っこに一輪だけ咲いたタンポポが、なぜかポンチ絵風に見えた、ような気がした。


日の出の方角

2012年01月02日 | つぶやきの壺焼

家からゆっくり足で15分歩いたところに、房総の山並みの見える丘の畑地がある。
画面左が鋸山、右のふたこぶは清澄山だろうか。

ここに初めて立ったとき、初日の出はもっと左手の東のほうからで、この方角では画面に入らないかと思っていた。
元旦に実際にその場所に立ってみると大違いで、画面から外れることなく、やや右よりだった。
冬の日は短く、太陽は思ったより南寄りから昇るのだった。

見えない未経験のことは、想像した方向からはずれやすい。
一度見たからといって、正確に覚えているとも限らない。

国の浮沈にかかわることは、いい加減な想像や、浅い知見で話をされては困るのだ。
想定外はもうご免こうむりたい。