南無煩悩大菩薩

今日是好日也

独りもん

2015-11-18 | 有屋無屋の遍路。
Cricket Chirping
 

誰に鳴く 師走間近に コオロギよ
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蕎麦が饂飩が

2015-10-29 | 有屋無屋の遍路。
(GIF/source)

小雨降る裏通り、私が蕎麦か饂飩かを考えているという世界にいるとき、

同時並行で表通りを行きかう人たちにもそれぞれ何かを考えているそれぞれの世界がある。

私が蕎麦か饂飩かで悩んでいるとはツユ知らず、表を行きかいすれ違う人たちはすれ違い行きかうだけである。

私が決心し蕎麦か饂飩を頼めば、店の人は私の世界に参加してくれるが、それさえ、店の人たち自身で自分の世界を生きるに過ぎない。

店の人に「蕎麦と饂飩どっちを私は食べたいか?」なんて聞くのは当事者意識の欠如だし、「蕎麦屋か饂飩屋かどちらかにしてくれ」なんて指図するのは傲慢だし不遜になる。

はて、

私が産まれて私の世界は始まった、たぶん私が死ねばこの世界はなくなる。ただそれだけなのだろう。

蕎麦か饂飩かを迷うことなく、前の人と同じものを選択したとしても、やはり自分の世界を生きることになるのだ。

いや、やはり迷うぐらいだからどっちでもいいのだろうし、ところで金もないのだからここは立ち去ってもいいようにも思う。

それよりもよくよく考えてみると、立ち去るにしても傘がないのが気にかかる。
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彼岸のなかびにて。

2015-09-22 | 有屋無屋の遍路。
(photo/Anne Brigman, “Stardust”)

湯上りに月明かり、心地よい季節です。

月という衛星のあることの僥倖、なれど月の明かりは恒星あってのことです。

惑いの星にいる吾々はえてしてその光明がどこから出ているかをついつい忘れがちでもある。

はげながら思うに、よく「きれいにてかってますね」と言われるがそれは光源あってのこと、わたしが「てかって」いるわけではないのだ。

月見れば月見る月は月でなし月見ぬ月は月ならむ -無山人-
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たぐりよせ、たぐりよせては・・

2015-09-18 | 有屋無屋の遍路。
(desihn/source)

曰く 「心を広く持ち、勇気にあふれ、意志と能力を兼ね備え、自分自身を相手の立場に置いてみる。それが成功の秘訣です」

曰く 「有能な人とは、誤りを発見して対処する為に、事態に最大限のフィードバックを与えるように自分の行動を設計する人である。つまり有能さとは、誤りを回避するスキルではなく、誤りを発見し、全員が自分の立場と行動(自分たちがどのような世界をつくってきたのか、そしてそれを作り直すには何をなすべきなのか)を学び続けることができるよう、自由にその情報に従って行動するスキルによって評価されなければならない」

曰く 「人生活発の気力は、物に接せざれば生じ難し。自由に言わしめ、自由に働かしめ、富貴も貧賎もただ本人の自ら取るに任して、他よりこれを防ぐべからずなり」

曰く 「雨が降れば、誰でも傘をさす。そうすれば濡れなくてすむ。至極簡単。当り前のことを適時適切に実行するところにこそ商売の秘訣がある」。

手繰り寄せてみると、覚え書きノートの冒頭に私はこのような文言を書き連ねている。

それから15年・・、だが・・・と言わざるを得まい。
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見舞いの夏

2015-08-09 | 有屋無屋の遍路。
(photo/source)

‘サクラの花の咲くころでしょう’

前年の夏、主治医のみたてをきっちり守った親父が逝ってから13年。

このクソ暑い夏に桜を思ったりするこの年のお盆です。

Satie
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作為と無為。

2015-07-30 | 有屋無屋の遍路。
(photo/untitled)

その男は今生の別れに尋ねる、それに応えるものは嘘をつく、

その嘘は誰を救ったのか、救わなかったのか。(パリは燃えているか

誤解を恐れずに言うと「為」については、だれもが「作」か「無」かで惑う、それはつまり人の琴線に触れる葛藤だからだ。

「為す」とはありのままに生きることである。ありのままに生きるためには作為ではなく無理なく育つ何かが必要である。

「無為」とは、何事も為さないということではなく、「作為を為さない」ということを意味している。

・・とはゆうものの、為すことに私は素直でいられるだろうか。


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蝉しぐれの日々また

2015-07-29 | 有屋無屋の遍路。
(版画/前川千帆)

昭和20年、人々には糖分が絶対的に不足していたその時の発刊である「偲糖帖」にはこう書かれています。

‘昔狐にだまされた男が 馬の糞を牡丹餅だとおもって食った という話がある 

たとえ一時の迷いでも とにかく牡丹餅を食った男の心境 むしろ羨んでしかるべし だとおもう・・’

そして、これでもかこれでもかと執念の如く、世の中の甘いものというものが書き綴られています。

戦時も戦後も当時の人々は生と死を常時身近に体感していたことでしょう。

歌人の岡野弘彦氏は「冬の家族」所収で、

‘辛くして我が生き得しは彼等より狡猾なりし故にあらじか’

と詠み、

同じく歌人の雨宮雅子氏は「雲の午後」所収で、

‘生き残る必死と死にてゆく必死そのはざまにも米を磨ぎゐつ’

と詠みました。

毎夏ながらそぞろ覚ゆる今日この頃であります。
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黄昏時の反省。

2015-03-26 | 有屋無屋の遍路。
(photo/unknown)

「可能なことで不可能なことを証明しようとする。予感によって現実を破壊する」

そんな拙さを反省する。

つまり、

「その用紙の表がA4なら間違いなく裏もA4である」

ということや、

「レモン一個に含まれるのは、間違いなくレモン一個分のビタミンCだ」

というような、

この歳になっても未だ当たり前のことを当たり前に考えられなかったことからくる反省である。

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呵呵なるや。

2015-03-12 | 有屋無屋の遍路。

三心浄行に徹せよ、

三心とは喜心、老心、大心である。


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彼岸前。

2015-03-10 | 有屋無屋の遍路。
(GIF)

‘従来、

惜貧なるも布施に変じ、

毀禁持戒に変じ、

羨怒忍辱に変じ、

懈怠精進に変じ、

動乱禅定に変じ、

愚痴智慧に変ず。

これを六波羅蜜と云いて菩薩の行を能持し、成就したる名なり。

波羅蜜は梵語にて到彼岸と訳す。’

「彼岸」-国民的仏道修行週間-中日の前後にかけて六波羅蜜多を修行して仏性を完成する週間。(高野山宿曜歴より)

今年の彼岸の入りは来週18日、少しなりとも変じられるだろうか。



変ずるを持ちつ灯しつ前彼岸
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神経痛若しくはぎっくり腰について

2014-10-21 | 有屋無屋の遍路。
(photo/The Central Nervous System, containing the brain and spinal cord.)

杖の世話を受けるようになってはや10日になる、このままでは転ばぬ先の杖を手放せるのもまだ遠かね、と思う今日この頃である。

内臓疾患や筋肉痛の類いでないことはうすうす勘づいてはいるが、さてどういう種類のものかの探索はなかなか進まない。

脳の感知機能に伝達する神経系でなにか不具合が起こっているようだ。

ザ・セントラル・ナーバスシステム、つまり中枢神経系のどこかが不具合を痛みとして感知するのであろうからその伝達を遮断すれば痛みはやわらぐが、それで患部の叫びが消えたことにはならず、ちゃんと修理するためには痛みを受け入れるしかない。そう思う故に薬は酒ぐらいにして状況とじっくり付き合うことに決めた。

腰を曲げて杖を突く生活は、患部以外の筋力に負荷がかかり普段使わない部分の鍛錬になっているようでもある。

また、いつまでそうしてくれるか不明だが周りが普段よりも少しだけ優しく感じられるところも気に入っている。

ありがたいことに肉体を使う労働環境にはないので、なによりもの報酬は、落ち着いてゆっくり過ぎゆく時を眺められることにある、つまり痛いのだから急がなくていいのだ。

なにか深刻な支障が生じその直訴があるまでは、‘あるがわがまま’を通させてほしいと痛み入る次第である。

しかし、脳に不具合の報告が上がるのであれば、その経路を辿って脳が自分でその個所を特定することができないというのもおかしなことだ、脳の指令として「この部分がこうなっているのでこうしなさい」ではなく「このへんがいたいのです」という二次情報しか我々が自覚できないのは何故だ。

しかし、私たちが骨も肉も脱ぎ捨てた姿は、クラゲに似ている。

(おまけ)

(photo/source)
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さかいめ

2014-08-20 | 有屋無屋の遍路。
(根曳峠)

途中で立ち寄った神社にはこんな標語が掛けてあった、

一所懸命にやると、智慧が出る

中途半端にやると、愚痴が出る

いい加減にやると、言い訳が出る


必定は登ったり降りたり、何度でもエッチャラコッチャラ坂を上れば峠に立つ喜びがある。


(境目峠)
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従々(それぞれ)。

2014-08-18 | 有屋無屋の遍路。

大風(おおやじ)のち雨のち曇り時々晴れ

曇りのち一時つよく雨のち時々雲の切れ間

断続的に大雨時々かみなりを伴う

曇りのち晴れ

そらがうごくわたしがうごく

従々諸仏 せきそううん
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追分。

2014-08-10 | 有屋無屋の遍路。
(10日朝、先程6時過ぎに台風11号ハーロン安芸市付近に上陸を確認)

雨風の親分が来た。来たということは去る。

さて、どっちにいこう風が吹く

(おまけ)

(photo/Japan,1961 by Burt Glinn)
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どうしようもない

2014-08-08 | 有屋無屋の遍路。

わたしがあたまを掻いている
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