南無煩悩大菩薩

今日是好日也

忘れちゃならねえこころ

2014-08-07 | 有屋無屋の遍路。

「たとへば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。またかなしかるべき事にあひて、かなしく思ふは、そのかなしかるべきことの心をわきまへしる故にかなしき也。されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、もののあはれをしるという也」

「たとえば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、すなはち是、もののあはれをしる也」
-石上私淑言(いそのかみささめごと)より-

「物の心をしるは、すなわち物の哀をしる也」-紫文要領より-

たぶん、心ある人とはもののあはれを知る人だと本居宣長さんは謂っている。
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そこに花があった。

2014-07-29 | 有屋無屋の遍路。

季節外れの芍薬壱輪、

私はこの花を見るという経験をしながらも、

しかしその表現の仕方に迷っている。

「わたしが、花を、見る」

「花が、わたしに、見える」

わたしは、主だろうか客だろうか。
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‘鴉見て 水飲んで 去る’

2014-07-22 | 有屋無屋の遍路。

行くに疲れて独り座れば鴉来る。

そういえば、‘咳をしてもひとり’と放哉の句

対して、‘鴉来てわたしもひとり’と山頭火。
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鈍牛。

2014-05-26 | 有屋無屋の遍路。
(牛図/長澤芦雪)

牛の図といえば私はこれだ。包み込んでいるやんちゃな子犬もいい。

「鈍」というのはいい言葉で、ゆっくりではあるが着実に且つ的を外さずに歩む、そんな度量を匂わす響きがある。

「本来、歴史というものは最終的解決なるものはないのであって、暫定的解決を無限に続けていくのが歴史だと思うのであります」

鈍牛と呼ばれた故大平正芳首相の言葉である。外交関係も色々と取り沙汰される現状にこの言葉は重い。

地平はあってもゴールは逃げ水のように去っていく、及第点はあっても合格はない、仕事も人生もそのようなものだと思える。

鈍牛のように暫定的解決を無限に続けるのが筋なのだろう。
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2014年5月18日の記。

2014-05-18 | 有屋無屋の遍路。
(写真/種田山頭火)

私は今まで山頭火の詠む心象に惹かれてきました。

そして本居宣長の謂う「もののあはれ」を五感に受けとめたいものだと願ってきました。

また森林太郎の謂う「バイタルフォース」を五体に与え得たいものだと願ってきました。

山に分け入り、野に遊び、川面といっしょに流れるような、わるくないそれなりの生を享受してきたのだとおもえます。

自我を自覚し自演する畢竟を概算できるほどの強かさも以前よりは少しずつ身に沁みてきたようです。

そしてもう一つの願いは、
フェルナンド・ペソアの謂うように、「外的現実についての明白で澄明な概念と、私が取るに足らないものだという直観と、小さな存在として幸せだと考えることができる快適さとを」
「私のこの外見が消え失せるその時まで、あらゆる神々が私を守り残してくれますように」というものです。

私のこの外見が消えうせるその時までと、わりと真面目に願うのです。
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私と自分のありざま。

2014-04-21 | 有屋無屋の遍路。
(photo by Paul Goldman)

私は頭に血が上っていた。

その時の「私」にとっては許しがたい無礼と無遠慮かつ不躾さに思わず「目にもの見せてやる」と私が挑みかかろうとした矢先、

「私」は「自分」を取り戻した。

いや、正確には「逆立ち」によって「自分」が「私」を制御したのかもしれない。

私と自分が、昔の在り様とだいぶ変わってきていることは確かだ。

それが、何かを得たことになるのか、何かを失ったことになるのか、それはわからない。

(おまけ)

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風が涼しくなってきた。

2013-08-29 | 有屋無屋の遍路。
(photo source)

青春 朱夏 白秋 玄冬

人の一生を四季に重ね寂滅為楽

あんなことやこんなこと もあったし、そんなことやなんてこと もこれからあるだろう。

私のぜんぶのうつろいが終わるとき、・・・そう、私の総四季となる。
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この夏のスナップ。

2013-08-18 | 有屋無屋の遍路。

できたことをよろこぶより、できなかった無念を覚えておきたい。






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往来の山河へ。

2013-08-09 | 有屋無屋の遍路。
(source/don't worry be happy)

かえりみてはじることのない足跡を

たどられてじゃまにならない足跡を

わたしは、跡めているだろうか。

人は、前に往く人の足跡を辿りながら、来る人への足跡というものを繰り出している。

オーライ、といえる往来にわたしは耐えられるだろうか。


・・・というような煩悩を荷物に、夏の山河に分け入ることにします。


おまもり

(棟方志功作/光明開韻妃図)
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道標。

2013-03-26 | 有屋無屋の遍路。
(photo/unknown)

どうやってここまで来れたのか、こうしてこうなったという根拠を定めることができないでいる。

その昔、根拠のない自信は大事だということが僕の心に効いたことがある。

根拠に頼りすぎた自信は、その根拠が崩れた場合にはすこぶるやっかいな拒絶反応を起こすというようなことだった。

それはさておきまだ先がある。斃れるまでの先はある。すぐなのか、ちょっと遠いのか、かなり先なのか、見当もつかないが先はある。

信ずるも信ぜずもなく、迷わず従うしか選択肢はないようだ。

もし、次にも同じ道しるべに出会えたら、それは嬉しいことだろうし、間違いではなかったと安堵もすることだろう。

ただ、今と同じように又、そこ迄行き着けたことの根拠に首を傾げているに違いない。
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信仰による収入

2012-12-01 | 有屋無屋の遍路。

私のこれまでの経験からいうと、成功も失敗も私個人の力によるものだとは考えづらいのです。

量ることのできない全体総体の、ホーリスティックな、影響下の、協働性の、営為の一部としての、私は単なる道具のような存在に過ぎないようだと感じ始めています。

信仰とはなにか?

上手くは言えないが、たとえば、アイディアが脳の中で結実して形を成そうとする、
いくら脳を割って眺めてもそのアイディアは見えないし、それがどのような変遷を持って産み出されたのかもわからない。

目に見えず、形無く、あるかどうかも定かではないもの。そんな定かではないものを信じることが、信仰というものと関係しているようです。

風が吹けば桶屋が儲かる、桶屋で儲かった桶屋の私は、鼠を増やすことも、猫を減らすことも、三味線の需要を増やす努力も、盲人に感謝することも、ましてや風を吹かすことなどできません。

ご多分にもれず、私も歳と共に何かもっと有意義なことをしたいと考えるようになりました。

信仰心というものに恥じない何かをする、ということで得られる収入の多さに気付き始めたのかも知れません。

ただその得る収入というのは、精神的な収入だということです。
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果たしてそれでいいのか。

2012-11-21 | 有屋無屋の遍路。

七回転んで八回起きる。ということなのか、

七回転んで八回目に起きる。ということなのか。

私は後者を支持する。

起きなければ転ばないだろ、ということもあるが、起きるというころを「やっとものになる」というニュアンスで捉えるからだ。

転んでも起き続けよ、ということと転び続けてもあきらめるな、というニュアンスの違いである。

それでいけば、七転八倒というのも、七八回ぐらいは平気で転ぶぐらいの気構えでなければ成就するものもたかが知れてるぞということになる。
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自分に似た人を探して学ぶ。

2012-09-27 | 有屋無屋の遍路。

釈迦の弟子である羅漢(らかん)さんの中には、おつむの弱い愚鈍な人もいたという。

れれれのおじさんのモデルだと云う人もいるが、釈迦はその人に箒を与えひたすら掃除をさせることで悟りを開かせたようだ。

ゲーテは「すべての人間が自分の家の前を掃除すれば、世界全体が美しくなるだろう」と云ったというが、それぞれにはそれぞれの働きがあり自分の持ち分を自分なりに追求すれば自ずと道は開ける、羅漢さんたちの多様なパーソナリティにはそんなメーセージがある。

この頃は、羅漢は羅漢でも働かんという人が増えているそうでそれが気がかりだ。
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まいどながらさりながら。

2012-08-22 | 有屋無屋の遍路。

通常のルートを外れて、曲がりくねる山越えの旧街道に入ると、勢いを増した夏草のむせる生があった。



灼熱のアスファルトには、強い日差しの中、生前のままの姿で、ギンヤンマがこと切れている。



丘には祀られた母子観音像。



心地よい浜風に誘われ神社に寝そべる猫がいた。



南無大師遍照金剛、物言わぬご同行に挨拶をして、



鎮魂と再生の般若に賽銭を置く。



独り来時去時を思う束の間



またもや忘れかけていた、注意すべきは、他でもなく、我にあり。
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夏草、青雲、風蜻蛉。

2012-08-07 | 有屋無屋の遍路。
(source/Lang Ching-shan 1955)

「片雲の風にさそわれて、漂泊のおもいやまず」

漂浪の旅を生命とした芭蕉は、「神無月の初空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して」、「旅人と我名よばれん初時雨」の句を残して旅に出たといいます。

私も、すこしだけ。
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