南無煩悩大菩薩

今日是好日也

覚悟の仕事人。

2011-06-02 | 有屋無屋の遍路。
(original unknown)

人生において、発砲されて無傷で済んだときほど、心浮き立つ経験は無い。-ウィンストン・チャーチル-


いわゆる「五・一五事件」で、乱入してきた将校達に対し臆さず逃げず「話せば分かる」といって凶弾に斃れたのは、犬養毅首相。
血まみれの中でも首相は、「いまの若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせることがある」と三度繰り返したという。


鉄の女、英国のサッチャー首相は、「私はコンセンサス(合意)に基づく政治家ではありません。私は信念に基づく政治家です。」といって憚らなかった。


「私が語るニューフロンティアとは、諸君への約束事ではない。そうではなく挑戦なのだ。」確かケネディ大統領は、そう方針を定めた。



私に政治・政局のなんたるかを知る術は無いが、

不一致あるところに調和を、誤りあるところに真実を、疑いあるところに信念を、絶望あるところに希望をもたらしたまえ。-unknown-


「僕の前に道は無い。僕の後に道は出来る」-高村光太郎-
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具体。

2011-06-01 | 有屋無屋の遍路。

大事だとおもえることは、なるべく具体的具象的に確認する必要があります。

なぜなら、わたしたちには抽象的なものに対してはかなり大胆になりますが、

具体的具象的なものに対してはそうでもないからです。


けっこう、かなり、などの形容は、その発する側の範囲の主観に基づいた抽象的感覚を含んでいる事があります。

例えば、弁護士の「高い確率」とは5分5分より上、例えば7割程度の確率を意味しているが、しかしエンジニアの世界では、99パーセント以上を意味するものであったりします。

ある部分が全体を正しく示唆することは稀です。

大事だと思えることは、嘘ではないが「正しくない正しさ」もあり、それを大胆に認めてしまわないことのようです。
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好敵手を求めて。

2011-05-25 | 有屋無屋の遍路。
(source)

・・・法廷で彼は、「なぜ自分を証人ではなく戦犯として出廷させないのか」と訊き、

裁判長が「貴君はこちらの訊問にイエスかノーかを答えればいいのだ」と注意して、さて、「満州事変における日本軍の被害はどの程度であったか」と質問したのに対して、

「被害の程度をいうのに、あいにく日本語では、イエス、ノーだけでは表現できない」とか、

「ジェネラルは東条と対立していたというがほんとうか」と質問されたのに対して、

「私に若干の思想があるが、東条には無い。思想のある者とない者との間に、意見の対立などありえない」など人をくった返事をした。-「人間臨終図鑑」山田風太郎より-

その人の名は、石原莞爾 元陸軍中将。

強い信念の人というのは、どうしても周りとの対立を産み易い、ただそれは双方に思想なり信念なりがある場合であり、片方だけであれば、それは単なる軋轢、鞘当と呼びうるもの。


その中の趣を理解せぬものにいくら説明しても解るものではない。

それを地でいった人ではなかろうかと思える。
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裁く人。

2011-05-17 | 有屋無屋の遍路。

善人の社会での落伍者は悪人であるが、悪人の社会での落伍者は善人である。-山口良忠-

この方は、元東京地裁判事、太平洋戦争敗戦後、裁判官として闇米(違法米)を買うことを拒否して栄養失調になり、それが元で34歳で他界された方です。


立場に殉するということ、畢竟生を賭す の心根ここに極まり 生きる。


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ミステイクについて。

2011-02-09 | 有屋無屋の遍路。

おそらく、常に誰かがどこかで誤った決定をしている可能性がある。

「ミステイク」を犯さない人などいるのだろうか。そんなことは誰にも分からない。


お互いに傍若無人に振舞い続けていたことこそが、大きなミステイクであった。-カール・マルクス-

一つの生態系のなかで暮らしているのにかかわらず、それを二つに分割してしまったことこそが、大きなミステイクであった。-アインシュタイン-


ミステイクについての難題は、何かを行おうとすればその存在を一旦は無視せざるを得ないという性質を持っているところだ。

悩ましくもままならぬところにある。
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虹を超えて。

2011-01-21 | 有屋無屋の遍路。

「彼らが切望していることは生存することである。
経済学的ならびに発展主義的な見解が考えるような、カロリー単位で計算された単なる生物学的ないし物質的な生存ではなく、人間的な活力という点からみた文化的な生存のことである。
排除されている人々は、可能であれば「良く」生きることを夙(つと)に望んでいる。「良い」ということは必ずしも「より多く」という意味ではなく、また「より良い」という意味でもない。
それは、彼ら自身の価値、規範、文化的選択にしたがって、そして最も高い国民総生産を追求する競争に囚われたり潰されたりすることではなく、尊厳ある生活を営むことを意味する。」-セルジュ・ラトゥーシュ-{経済成長なき社会発展は可能か?}-



「彼ら」とは誰を指すのだろうか。



それはつまり 過去の現在の未来の 「私たち」 ではないか。
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たっち。

2011-01-19 | 有屋無屋の遍路。

中に何かが居る。

しかしそれに触れることは出来ない。


「脳は触られても何の感覚も生み出さない。
頭蓋骨という骨の枠にきっちりと収まっている脳は、その存在を知覚信号で訴えたりしない。
心臓は鼓動を、肺は拡がる感じを。胃はむかつきを訴える。
だが、運動性も知覚神経の末端も持たない脳は、我々にとって認識不可能な存在であり続けている。
意識の源が、意識の届かない場にあるわけだ。」-ニコラス・G・カー-




何かが中に居る。


はっきりとは捉えられない。


どうしてもフォーカスできないのである。
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秘めたるや精魂。

2010-12-20 | 有屋無屋の遍路。

うろおぼえだが、大塩平八郎と言う人物の話がある。

市井のたみ、民衆が飢饉と飢えで苦しんでいるのを見かねたその人は、お上の備蓄米を放出するよう掛け合う。

しかし一向に腰を上げない権力権益者に対し彼は蜂起する、いわゆる大塩平八郎の乱を起こす。

一戦交え、防いでいる間に倉庫蔵を開放させ、それを苦しんでいる人々に配り終わるのを見届けると、その人は、自害する。

その人の確かこんな言葉が残っている。
「雷光のように激しく、雷鳴のように恐ろしくあろうとも、しかしその空は晴朗でなければならない」


多分にその民衆からみた彼の心構えは、ほとけかぼさつに映ったのではなかろうか。

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働くことについて。

2010-12-17 | 有屋無屋の遍路。

「あなたが働くのは、自分自身の世界を見出し、そしてそれに心身を捧げるためである」-仏陀-

「・・精神の創造というべき労働の場合、外的な強制は無用にして有害となり、ある種の内的な強制がこれにとって替わる。未完成の仕事の光景は、ムチが奴隷を追いやるのと同じ強烈さで、自由な人間をひきよせる」-シモーヌ・ヴェイユ-


未完成の仕事の光景を、農耕者は作付に、狩猟者は捕獲に見る。

自由な人間を引き寄せ、自分自身の世界を見つけるための仕事は、完成された世界の一部分を引き受けることではなく、未完成の世界での試行錯誤を内的な強制として推し進められるようなものであるかどうか。


大原女に女工哀史のようなイメージは無い。
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ニーズとキー。

2010-12-16 | 有屋無屋の遍路。

チャーミングなモンキーをみて、思い浮かんだ話がある。

時代は明治、東洋人に対する偏見と差別の中、一人の日本人がアメリカの地を踏んだ。

彼は横柄な青年にこう声をかけられた。
「ウィッチ ニーズ アー ユー チャイニーズ オア ジャパニーズ?」(あんたはどっちのニーズなんや チャイニーズか?それともジャパニーズか?)

その男はこう答えて去ったと言う。
「ウィッチ キー アー ユー ヤンキー モンキー オア ドンキー?」(おまえさんはどっちのキーや ヤンキーか モンキーか それともドンキーか?)

その人の名は岡倉覚三、精神の気骨と、それを裏打ちする知識と信念と、文化に根ざす聡明さとユーモアを兼ね備えていなければ、なかなかできない反応だと思う。

垣根を取り払うには、お互いをよく知ることだと身を持って実践する必要があり、パートナーになるためには必要だと思わせること、それこそが扉を開ける鍵となる。

それが、ニーズであり、キーだ。とこの話を捉えるのはうがちすぎだろうか。
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枯れ葉よ。

2010-12-02 | 有屋無屋の遍路。

今朝もあいも変わらず便所で新聞を読んでおったら、流行語大賞の記事が出ていた。

ゲゲゲの・・ だという。

後はよう覚えておらんが、「脱小沢」 は、受賞者が辞退したと書いておった。

おおよそ見当をつけてみながら、何かとしゃしゃりでたい、辞退の嫌いな人たちであろうになんでやろ?という疑問が生まれた、ちょうどその時の事情も重なって、つい考える人になって、唸ってしもうた。

「え~ 今回は名誉ある流行語に選ばれ、身も引き締まる思いでありますが、テレビで知る・・という情報収集力の確かさを鑑みても、たとえ1%でも・・全国の小沢君が学校でいじめにあうことになるようなリスクを伴うことも考えられる以上、私は知らなかったということで、いや実は本当に知らないわけでして、政治主導の判断で、今回は辞退したわけであります。」

なんていう、コメントぐらい出せば・・・と思ったところで、わしのが出た。

しっかりしろよ、とだれに声をかけていいかもわからんような今、くもの巣にひっかかって、土にもなれない枯葉と、肥料にもなれず「脱」で流れ行くわしのあれと、ジョークの余裕も無い受賞者とが思わず重なったのであった。

選考基準もようわからんが、なんかすっきりせんのう。
年末の清水寺の貫主さんには、「脱」とかいて欲しいのう。

これはしかし、下(ゲ)の下(ゲ)の下(ゲ)の話じゃがの。

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似ている二人。

2010-11-27 | 有屋無屋の遍路。

アレクサンドロス大王の時代、ギリシャの哲学者にディオゲネスという人がいた。

頓着も欲も無い人で、家の代わりの大甕と拾った物を入れる頭陀袋だけで暮らしていたという。

大王の呼び出しにも応じず、仕方なく大王が会いに行き、挨拶をして、何か欲しいものはないかと問うと、彼はこう答えたという。

「そこをよけてくださらんか。日陰になる。」

そこで、大王はこう言ったという。
「余がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスでありたい。」

言うほうも大物だが、応じるほうも大物だ。お互いの人物を認め合っている。


賢人は賢人と、草は草と、鳥は鳥と、甲虫は甲虫と、共に親しい。
人は人に、猫は猫に、孔雀は孔雀に、蝶は蝶にとって、最も美しく見える。

似ている二人は惹かれあうようにできている。

頼み込むようなことをしなくても、きっと惹かれあう。

ひらがなでかくと 「でぃおげねす」
「おねげぇです」 とは言わないのである。

似てまったく非なるものもなかにはある。
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ないのにあるもの。

2010-11-26 | 有屋無屋の遍路。

ある光景を記憶に留めようと努めるなら、
それを見た後に一旦目を閉じて思い浮かべてみる。

目に焼き付けるというより、心に焼き付ける。

人の能力や技量を測るのは、再現性と反復性においてである、と誰かが言っていた。

ある話を記憶に留めようと努めるなら、
それを聞いた後に、一旦耳をふさいでもう一度その言葉をなぞってみる。

耳に刻むというより、心に刻む。

ある作家は、一本の線を引く最良の方法は、目を閉じて引くことだ、と言った。

豊かな記憶は、豊かな感性を磨くらしい。

僕も目を閉じ、耳を覆ってみる。
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散らかるとよいものとよくないもの。

2010-11-25 | 有屋無屋の遍路。

私たちの脳はコントロールしてやる必要があるという。

本能としてもっている様々な事象に対応しようとする脳は、必然的に注意力の散漫を招き、集中力をそぐ方向に向かうらしい。

例えば本を読むということは、単一の静止した対象に向かい、切れ目なく注意を持続させるという集中力が無くては、続けられないし、身にもならない。

そのためには、ほっておくと散漫に向かおうとする衝動に抵抗するよう、自分の脳を訓練しなければならないということだ。

本能の衝動をトップダウンでコントロールする脳が必要だというわけだ。

ロバート・デシモンという学者さんによると、
脳が注意力に対してトップダウンのコントロールを維持するためには、前頭前野のニューロンの同時発火が必要とされるようであり、強力な「注意散漫の」インプットを処理しないようにするためには、前頭前野の力が相当必要だという。

授業中に暴れるなどの落ち着きの無い子供たちのように、注意力が散漫だということは、前頭前野の開発が未熟だということでもありそうだ。

USJやディズニーランドで本を読ませたり、薪を背負いながら読ませたりするほどのスパルタは必要ないだろうが、本を読むことを好きにさせてやることで、この分野の強化を促すことにつながるのではないだろうか。

散漫をコントロールし、相対的に中断することなく単一の作業に集中できる能力は、自らの脳を自らで規制するという、高度な脳力の賜物だということでもありそうだ。


大事なところで、「気が散る」というのはよいものではないが、冬の「木が散る」のは、なかなかよいものである。
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所得耐性。

2010-11-24 | 有屋無屋の遍路。

1946年に、「J・R・ヒックス」という人が「所得」というものの定義をこう唱えた。

「コミュニティーがある一定期間だけ消費を続ける時、その期首と期末で経済的な豊かさを悪化させることなく消費できる最大限の物量」


国家でも、会社でも、家庭でも、期首よりも期末が減じているならば、分不相応な消費、つまりリミットを越えた過剰所得の可能性がある。

現在の国家予算も、多大な借金でその既得権化した所得水準を維持している状況になっている。

全体の経済的な豊かさを悪化させながら、部分の経済的な豊かさを維持するということは、高度成長再びの奇跡を待っているとしか思えない。

夢のような期末(将来)を願って問題を先送りにして、今を借金でまかなうような所得認識の乏しい人の、破産者になる確立は非常に高い。


私は思う。

JRの切符を買うのにも、540円しかなければ、570円のところへ行こうとしてはならないし、30円足らないことを嘆き悲しんでもならない。お金が降ってくるなんて言う奇跡を待ってもならない。

もし570円の所へ生きたいならば、30円分は歩かねばならない。もっと遠くならもっと歩けばいい。

かえって健康的だし、楽しいことが待っているかもしれない。

そういうふうに折り合いをつけるほうがずっといい。
これを、「JR・フィックス」という。
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