命を立てる由縁とは何ぞや。
人は何故にそう考え想うか。
人を騙すことはできても、自分を欺くことはできない。
由縁とは己が神との契約であろうか。
いやいや。
知らずともよいが確かめねばなるまいて。
それ。命を立てる由縁なり。
・・・。
仁。
二人。と書く。
先輩後輩だろうが、朋輩だろうが、恋愛同士だろうが、袖すりあう二人だろうが、親子兄弟だろうが、なんにせよ人2人が関係すると、そこには暗黙のルールが生まれる。そのルールを尊重し騙し欺くことの無いのが仁。だと言わっしゃる。
つまりが、思いやりのルールであろうか。
信。
人の言葉。と書く。
吐く言葉は信じられるものでなくてはならない。その言葉を、信じられ、信じることができるからこそ相手を信じられる。これなくしてそもそも人間関係なぞ成り立つものではない。と言わっしゃる。
つまりが、騙し欺かない言葉のルールであろうか。
しかしだ。
よくよくつきとめるならば、仁と信はアンビバレンツ(反対同義語)の様相も呈しておる。
仁を尊べば信ならず。
信の厳守が仁ともならず。
「バカな代表にお前は馬鹿だという。」
信ではあるが仁に沿うものかどうか。
・・・仁に厚いメンバーでよかった。
「セクハラ禿親父なのにぜんぜん親父臭しませんねぇ。」
仁ではあるが、信とは考えられない。
・・・あなた!臭いわよ!とよく言われる。
かなり下世話な例えではあり申すが・・。
もとい。
聖人君子。と言われる人達も、全てにおいて聖人君子だったわけではないだろう。
差別的発言も多く残されている君子や、下のほうはまったくだらしなかった聖人もいらしゃったようであります。
ただ。
命を立てる由縁に関しては偉大であった。