私のこれまでの経験からいうと、成功も失敗も私個人の力によるものだとは考えづらいのです。
量ることのできない全体総体の、ホーリスティックな、影響下の、協働性の、営為の一部としての、私は単なる道具のような存在に過ぎないようだと感じ始めています。
信仰とはなにか?
上手くは言えないが、たとえば、アイディアが脳の中で結実して形を成そうとする、
いくら脳を割って眺めてもそのアイディアは見えないし、それがどのような変遷を持って産み出されたのかもわからない。
目に見えず、形無く、あるかどうかも定かではないもの。そんな定かではないものを信じることが、信仰というものと関係しているようです。
風が吹けば桶屋が儲かる、桶屋で儲かった桶屋の私は、鼠を増やすことも、猫を減らすことも、三味線の需要を増やす努力も、盲人に感謝することも、ましてや風を吹かすことなどできません。
ご多分にもれず、私も歳と共に何かもっと有意義なことをしたいと考えるようになりました。
信仰心というものに恥じない何かをする、ということで得られる収入の多さに気付き始めたのかも知れません。
ただその得る収入というのは、精神的な収入だということです。