わたしのまちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして草にすわれば
それがわかる
-八木重吉「草にすわる」より-
たとえば、昔の人は、見晴らしのいい丘の上に建てられた小屋の中に雑居して、四方の窓から自由に外を眺めていた。
今では広大な建築が、たくさんの床と壁とで蜂の巣のように仕切られ、人々はめいめいの室のただ一つの窓からわずかな一部を見張っている。
ただでさえ狭い眼度は度の強い望遠鏡でさらにせばめられる。
オチツイテスワッテナガメルコトガデキル。 そんなところに行くとわかることもある。
しかるにせっかくのそんなところに出掛けているにも関わらず、駆け足で通り過ぎたりするのは惜しい事である。
これは人々があまりに忙しすぎるせいかもしれない。
そうだとすればこれらの人々を駆使する雇い主が責任を負わねばなるまい。
しかし中には暇はあっても不精であったり、またわざわざ出掛けるよりも室の片隅で茶を飲んだりテレビでも見てた方がいいという人があるならばそれはその人の勝手である。