南無煩悩大菩薩

今日是好日也

純粋無謬存在理由

2020-02-04 | 古今北東西南の切抜
(picture/original unknown)

私たちは、鎧を身に着け己を守っているつもりでいる。

世の汚れを離れた場所から眺め、無関係なつもりでいる。

だが、汚れへの嫌悪は次第に私たちを蝕む。そして最後には日常に戻れなくなるのだ。

(引用/映画「湿地」より)

Book Trailer: Mýrin/Jar City


純粋さとは、

汚れをじっと見つめうる力である。

極限の純粋さは、純粋なものをも、不純なものをもじっと注視することができる。

不純は、そのどちらもができない。

汚すのは、変化させることであり、触れることである。

美しいものとは、変化させようと思うことのできないものである。

なにかに対して力をふるうのは、汚すことである。

所有することは、汚すことである。

純粋に愛することは、へだたりへの同意である。

自分と、愛するものとのあいだにあるへだたりを何より尊重することである。

目的を持たぬ努力のみが純粋である。

力を振るうことも被ることもない。これぞ独自の純粋さである。

力を賛美しない文明。力の影響を免れているものは純粋である。

純粋さは悪を浄める。

誕生と死は人間存在の純粋さの変質である。

裸性と完全な純粋さの瞬間は人生において二度しかない。誕生と死である。

しかしわれわれの内なる凡庸さは生きながらえようとして自衛する。

それで純粋さを穢す必要を覚えるのだ。

力を行使することは穢すことだ。所有することは穢すことだ。

純粋さは悪を惹きつける。

悪は焔に跳び込む蛾のように純粋さにまとわりついて滅びる。

すべては火を通らなければならない。

しかし焔となった人々には火が常住の場である。

それにしても火となるには地獄を通ってきたのでなければならない。

(切抜/シモーヌ・ヴェイユ「純粋さ」より)
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