(picture/ Cosmic Dance of Siva)
剣豪柳生宗矩と沢庵禅師の話。
・・「さすれば禅師、心をどこに置きましょう」
「どこに置けばいいか思案してみるがいい」
「敵の働きに心を置けばよろしいでしょう」
「敵の身に心を置けば敵の働きに心を取られるゆえ、そちの身の働きが抜けてしまう」
「ならば、敵の太刀に心を置きましょう」
「敵の太刀に心を置けば、その太刀に己の心を取られるゆえ、こちらの心が抜けてしまう」
「ならば、敵を打たんと思う所に心を置きましょう」
「敵を斬ろうと思う所に心を置けば、それに心を取られて我が働きが抜けてしまう」
「然らば一心を我が太刀に置きましょう」
「我が太刀に心を置けば、打たれまいというに心が止まって自由の働きが出来ん。敵の構えに心を取られて自由自在の働きが出来ん」
「然らば禅師、心の置き所がございません。置き所のない心なら人の身に心は要らないものでございましょう」
「その要らんものという所が悟道の極意じゃ。心の置き所をよくまた、一応考えてみろ」
「然らばわが心はとかく、よそへやれば心のいく所に止まって敵に負けますほどにわが心を臍の下に押し込めて他所へやらず、敵の働きによって変化したらよろしゅうございます」
「道理の事だが、それは修行稽古の時の心持で、いざというときには役には立たんのじゃ」
「そうおっしゃられると心の置き所がございません」
「そんなことはないはずじゃ」
「いったいどうしたらよろしいでしょう」
「もう少し考えてみるがよろしい」
さすがの名人宗矩も困った。心の置き所がないのだ。箱に入れて棚に置いておくわけにもいかない。
「禅師、心を臍下に入れて押さえつけてはいかんとおっしゃいますが、孟子の放心を求めよということがございます。これはつまり放れた心を取り返せということであって、臍下に入れておいて、敵の働きにより変化したほうがようございましょう」
「成程、心を放ってはいかんという者もおれば、心を放てという者もおる。さ、ここが第一肝要のところじゃ。臍の下へ心をやって余所にやるまいとすればやるまじと思うに心が取られて、先の用が欠けて不自由になる。右の手に心を置けば右の手に心が止まって、後の用が欠ける。心を眼に置けば眼に心を取られて、身の用が欠ける。なあ」
「はっ」
「それからまた、右の足に置けば右の足に心を取られて身の用が欠ける。何処へなりとも一つ所に心を置けば、余の方の用がみな欠けてしまう。それはなんとも不都合ではないか。然らば心を何処に置けばいいと云うに、何処へも置かぬがいいのじゃ。よろしいか」
「はっ」
「何処へも置かねば、我が身一杯に行き渡って全体に伸び拡がりがあるゆえに、手のいる時は手の用を叶え、足のいる時には足の用を叶え、目のいる時には目の用を叶え、その入用入用の所に行き渡っているから、少しも窮屈なことはない。万一にも一つ所に定めておけば一つ所に心を取られて用が欠ける。思案をすれば思案に心を取られて、妄想がおこる。よって思案も分別も致さず、心をば総身に捨て置き何処へも置かず捨ててしまえば、心は全体に延びて自由が利く、一つ所に心を置けばその置いたところより引き出して使おうとするゆえに、そこに心が止まって用ができぬ。心を猫をつなぐようにして余所にやるまいとて我が身に引き留めておけば我が身が心を取られるぞ。身のうちに捨ておけば余所へはいかぬものじゃ。ただ一つ所に止めぬ工夫が最も大切である。心をば何処にも置かねば何処にもある。心を一方に置かねば十方にある。どうじゃ、わかったかな」
「はっ」というかと思うと柳生宗矩はニッコリ笑って、思わず小膝を叩いた。
「極意はここじゃな」と叫んで頷いたのである。
己に極意を呑み込んだ天下の名人柳生但馬守、後日の御前試合において十人一団の剣客者を相手にして、綽々たる余裕をつくり、見事これを打ち破ってしまった。
決してこの極意は剣道ばかりに用いるべきものではない。世の中のことすべてこの覚悟が肝要である。
(引用/羽場愚道「沢庵珍話」より)