目の見えない人にも風景はある。
ヘレンケラーはその創造性と好奇心により恐ろしいほどの形容詩を用いて現実という風景を活写した。
心象風景と片付けるには背信行為だと思えるほどの示唆と彗眼を持って。
一方健眼者は、思いのほか見えることに慣れているので、かえって現実よりも心象のほうに傾きやすいのかもしれない。
見慣れた顔あるいは聞き慣れた名声なども、それだけで許容されることがある。
つまり「慣れてしまった現実」を盲目的に観てしまい、「見損なっている」ことの是正が放置される。
情報と現実の仕分けが難しいと感じたら、見慣れた風景をじっくりと味わってみることも一興だ。
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