(photo/original unknown)
私は人生を肯定できている者ではありません。しかし、人生を肯定したいと思って今日まで歩いてきたもので、私の一生はこの一つの目的に集中されて来たといっていいのであります。
私たちは人生に対して何等の要求をする資格もない者であります。人生がどんなにつまらない、無意味なものであっても、生まれた以上は仕方のないものであります。私たちはつくられたままに生きてゆくより仕方がないので、どんなにまずくつくられていても、私たちは不平は言えないのであります。
言えるかもしれませんが、言ってもどうにもならないものであります。例えば我々が蛇身のような姿につくられていても、我々は何ともしようがないのであります。
私は指は六本あったらいいとは思いません。目は三つ欲しかったとも思いません。人間の手以上の手を欲しいとも思わず、人間の身体以上の身体を持ちたいとも思いません。もっとも、顔や身体の出来のよしあしについては、いろいろ注文したいこともないとは言えませんが、人間であることに不服はないわけであります。
私はそれ以上、人間の心の出来に不服を持たないものです。人間の心がどうつくられているか。私はそれを自分が十分知っているとは思いませんが。しかし私の知れる限りでも、人間の心は良く出来ていると思うので、私はその点、ことにありがたいと思っているもので、その結果、私は人生は肯定できるものではないかと考えるようになり、今日までそのために骨折って来たわけです。
骨折ったと言っても、別に大して骨折ったわけではありませんが、しかし私の考えの中心は、まず自分の生命を肯定したい、そして人間に生まれたすべての人の生命を肯定してあげたい、これが私の本願でした。
このことを最近、私は確実に知ることが出来たのであります。今までも今日ほどはっきりそのことを自覚してはいませんでしたが、その目標を目指して歩いて来たのは事実と思います。人間以外の動物は自分の生命の無意味さを痛感する能力を与えられていないように思うのです。彼らは自然に生き、自然に死ぬ。生の喜びと、死の苦しみ、恐怖は痛感させられているのでしょうが、何のために生きなければならないかということは考える必要はないのだとおもいます。
ところが人間になると、いろいろ考える能力を与えられている結果、自然のままに生きることで満足せず、自分勝手にいろいろ考える結果、「自分が生きて何になる」というような、自己否定の考えさえ抱くようになったのであります。
人間はこの世で苦しんで生き、その結果、最後に死苦がある。人間に生まれなかった方がよかったのだ。そう考える人さえ出て来たのです。むしろ正直に言って、私たちも人間の生きる不安をいつも感じさせられているわけで人生否定の方が、人生肯定よりずっと安価に持つことを我々は強いられているわけで、考えない人は別ですが、少しでも考える人は、人生肯定なぞは、出来ない話のように思っている人が多いのではないかと思います。
そして、多くの人は考えると人生が面白くなくなるので、なるべく考えないことにしているというのが現状ではないかと思われるのです。少なくとも私にはそう思われるのですが、私はそれで満足出来ないのです。そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。
人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間は生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。
つまり私たちは生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇跡が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。何が我々が生まれることを望んだか、私にはわかりません。しかし原因があって結果があるのです。何かの力がなくして我々は生まれるわけはないのです。
子供が生まれれば、皆めでたいと言う。生まれた子供も、生々と生きられる時は、実に元気で、いつも嬉しそうにしている。この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。内からあふれる生命力、まず私はそれを信じるのです。本来の生命、自然はそれに何処までも生きよと命じているのです。
この命令は我々にとって絶対と言っていいのであります。私たちが今日まで生きて来られた原動力はこの力であります。しかしこの力は他の生物にとっては無批判に生かされて来たのですが、人間になって、その力は理性的に生かすことを命じられたのであります。
ここに人間の人間たる所があるわけです。ですから我々はこの与えられた理性で我々の内からの生命をよく生かしてゆけば、自然からよしと見られるわけで自然からよしと見られることは、自己の生命が自然に肯定されたことになるので自然から肯定された生命はすなわち内心から肯定された生命になるのです。つまり人生を肯定したいものは、自然から肯定される生活をすればいいわけであります。
ですから私は、自然の深い意思に沿って生きることを心がけ、また人々にもそれをおすすめしたいとおもうのであります。人生は理屈ではありません。理屈でわからないことだらけです。しかし実感で自然の愛を感じられ、ありがた涙を流すことが出来ればそれでいいのです。
ある尊敬する老いたる文豪は死ぬとき「さわやかだ」といって死んだそうですが、さわやかさを実感して死ねれば、それでいいのではないですか。人生は美しい、私はそれを知って生きてゆきたい。
ところがこの世には愚かなものが多すぎて、人生の美しさを知らず、花が爛漫と咲匂っている下を歩きながら、何か金でも落っこっていないかと探して、無いのでちまなこになって、人生は醜いと言っている人が少なくないのではないのですか、もとより今の世の中は、人生の美を知らない人々によってつくられているので、醜いことだらけ、悲惨なことだらけと言えるかもしれませんが、それは人生が悪いのではなく、人間が愚かなのだと思います。
自分の中の梁(うつばり)を気にしないで、他人の目の中の塵を気にするものが実に多く、好んで自分を不幸にしているもの、世の中を不幸にしているもの、他人を不幸にしているもの、真理に背中を向けているものが実に多い。そういう人ばかりと言いたいくらいです。しかし我々は誇張してものを考えるのをやめましょう。存外世の中にはいい人が多い、真面目な人が多い、親切な人が多い、善良な人が多いと思っていいのだと思います。
そしてそれらの人は意識しないけれど、自然から愛されている平和な勤勉な人々であります。しかしそれらの人は深い自然の意志を知っているわけではありませんから、何ものにも動かされない落ち着きを持っているわけではありません。偶然幸福な時が多いのにすぎません。我等はそれで満足はできません。我等は人生を肯定する道を、すべての人と一緒に前進し、すべての人が自然の意志に適うように、生きることを望んでやみません。それはつまり、すべての人が最も深い内心の欲求で、本来の姿をそのまま正しく生かすことです。
自我心も、恋愛も、夫婦の愛も、博愛も、自然の意志、人類の意志に適った形において貴いのです。虚偽であってはならないのです。またどんな逆境でも、孤独な時でもその人が全力を出して、自分のなすべきことをなすとき、最も力強い生命がその人の体内に、あるいは精神的にあふれ出て、その人に生き甲斐を与えるのであります。
日々決心を新たにして、自己の本来の生命を完(まった)き姿で生かそうとするもの、その人こそ人生肯定の道を歩いている人と言えるわけです。
理屈ではなく、実感で、全心全身で人生を肯定出来る道をお歩きください。このことはいかなるときでも、人間が生きている限り、可能なことであります。それを信じて生き抜いて下さい。
-抜粋参照/武者小路実篤「真理先生」より
私は人生を肯定できている者ではありません。しかし、人生を肯定したいと思って今日まで歩いてきたもので、私の一生はこの一つの目的に集中されて来たといっていいのであります。
私たちは人生に対して何等の要求をする資格もない者であります。人生がどんなにつまらない、無意味なものであっても、生まれた以上は仕方のないものであります。私たちはつくられたままに生きてゆくより仕方がないので、どんなにまずくつくられていても、私たちは不平は言えないのであります。
言えるかもしれませんが、言ってもどうにもならないものであります。例えば我々が蛇身のような姿につくられていても、我々は何ともしようがないのであります。
私は指は六本あったらいいとは思いません。目は三つ欲しかったとも思いません。人間の手以上の手を欲しいとも思わず、人間の身体以上の身体を持ちたいとも思いません。もっとも、顔や身体の出来のよしあしについては、いろいろ注文したいこともないとは言えませんが、人間であることに不服はないわけであります。
私はそれ以上、人間の心の出来に不服を持たないものです。人間の心がどうつくられているか。私はそれを自分が十分知っているとは思いませんが。しかし私の知れる限りでも、人間の心は良く出来ていると思うので、私はその点、ことにありがたいと思っているもので、その結果、私は人生は肯定できるものではないかと考えるようになり、今日までそのために骨折って来たわけです。
骨折ったと言っても、別に大して骨折ったわけではありませんが、しかし私の考えの中心は、まず自分の生命を肯定したい、そして人間に生まれたすべての人の生命を肯定してあげたい、これが私の本願でした。
このことを最近、私は確実に知ることが出来たのであります。今までも今日ほどはっきりそのことを自覚してはいませんでしたが、その目標を目指して歩いて来たのは事実と思います。人間以外の動物は自分の生命の無意味さを痛感する能力を与えられていないように思うのです。彼らは自然に生き、自然に死ぬ。生の喜びと、死の苦しみ、恐怖は痛感させられているのでしょうが、何のために生きなければならないかということは考える必要はないのだとおもいます。
ところが人間になると、いろいろ考える能力を与えられている結果、自然のままに生きることで満足せず、自分勝手にいろいろ考える結果、「自分が生きて何になる」というような、自己否定の考えさえ抱くようになったのであります。
人間はこの世で苦しんで生き、その結果、最後に死苦がある。人間に生まれなかった方がよかったのだ。そう考える人さえ出て来たのです。むしろ正直に言って、私たちも人間の生きる不安をいつも感じさせられているわけで人生否定の方が、人生肯定よりずっと安価に持つことを我々は強いられているわけで、考えない人は別ですが、少しでも考える人は、人生肯定なぞは、出来ない話のように思っている人が多いのではないかと思います。
そして、多くの人は考えると人生が面白くなくなるので、なるべく考えないことにしているというのが現状ではないかと思われるのです。少なくとも私にはそう思われるのですが、私はそれで満足出来ないのです。そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。
人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間は生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。
つまり私たちは生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇跡が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。何が我々が生まれることを望んだか、私にはわかりません。しかし原因があって結果があるのです。何かの力がなくして我々は生まれるわけはないのです。
子供が生まれれば、皆めでたいと言う。生まれた子供も、生々と生きられる時は、実に元気で、いつも嬉しそうにしている。この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。内からあふれる生命力、まず私はそれを信じるのです。本来の生命、自然はそれに何処までも生きよと命じているのです。
この命令は我々にとって絶対と言っていいのであります。私たちが今日まで生きて来られた原動力はこの力であります。しかしこの力は他の生物にとっては無批判に生かされて来たのですが、人間になって、その力は理性的に生かすことを命じられたのであります。
ここに人間の人間たる所があるわけです。ですから我々はこの与えられた理性で我々の内からの生命をよく生かしてゆけば、自然からよしと見られるわけで自然からよしと見られることは、自己の生命が自然に肯定されたことになるので自然から肯定された生命はすなわち内心から肯定された生命になるのです。つまり人生を肯定したいものは、自然から肯定される生活をすればいいわけであります。
ですから私は、自然の深い意思に沿って生きることを心がけ、また人々にもそれをおすすめしたいとおもうのであります。人生は理屈ではありません。理屈でわからないことだらけです。しかし実感で自然の愛を感じられ、ありがた涙を流すことが出来ればそれでいいのです。
ある尊敬する老いたる文豪は死ぬとき「さわやかだ」といって死んだそうですが、さわやかさを実感して死ねれば、それでいいのではないですか。人生は美しい、私はそれを知って生きてゆきたい。
ところがこの世には愚かなものが多すぎて、人生の美しさを知らず、花が爛漫と咲匂っている下を歩きながら、何か金でも落っこっていないかと探して、無いのでちまなこになって、人生は醜いと言っている人が少なくないのではないのですか、もとより今の世の中は、人生の美を知らない人々によってつくられているので、醜いことだらけ、悲惨なことだらけと言えるかもしれませんが、それは人生が悪いのではなく、人間が愚かなのだと思います。
自分の中の梁(うつばり)を気にしないで、他人の目の中の塵を気にするものが実に多く、好んで自分を不幸にしているもの、世の中を不幸にしているもの、他人を不幸にしているもの、真理に背中を向けているものが実に多い。そういう人ばかりと言いたいくらいです。しかし我々は誇張してものを考えるのをやめましょう。存外世の中にはいい人が多い、真面目な人が多い、親切な人が多い、善良な人が多いと思っていいのだと思います。
そしてそれらの人は意識しないけれど、自然から愛されている平和な勤勉な人々であります。しかしそれらの人は深い自然の意志を知っているわけではありませんから、何ものにも動かされない落ち着きを持っているわけではありません。偶然幸福な時が多いのにすぎません。我等はそれで満足はできません。我等は人生を肯定する道を、すべての人と一緒に前進し、すべての人が自然の意志に適うように、生きることを望んでやみません。それはつまり、すべての人が最も深い内心の欲求で、本来の姿をそのまま正しく生かすことです。
自我心も、恋愛も、夫婦の愛も、博愛も、自然の意志、人類の意志に適った形において貴いのです。虚偽であってはならないのです。またどんな逆境でも、孤独な時でもその人が全力を出して、自分のなすべきことをなすとき、最も力強い生命がその人の体内に、あるいは精神的にあふれ出て、その人に生き甲斐を与えるのであります。
日々決心を新たにして、自己の本来の生命を完(まった)き姿で生かそうとするもの、その人こそ人生肯定の道を歩いている人と言えるわけです。
理屈ではなく、実感で、全心全身で人生を肯定出来る道をお歩きください。このことはいかなるときでも、人間が生きている限り、可能なことであります。それを信じて生き抜いて下さい。
-抜粋参照/武者小路実篤「真理先生」より
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