平面と立体では次元が違うように、考え方やものの見方においても、平面的な推量の域を客体的な観点から立体化することは大事だろう。
たとえば、ある次元から見れば、泥棒は悪いことであるが、法の「秩序」に対しては我々よりもきっちりと守っている。
法。というものの裏をかくことによって成り立つ職業であるからには、秩序である法を人一倍認識尊守することが、捕まらない為には必要だからである。
つまり泥棒をしない人の考えるものとは法と秩序に対する認識の次元が違うのだ。
私が言っているのは、口ひげに唐草風呂敷の泥棒のことではない。次元の違う価値基準を持って、それを目的的に習慣にしてしまっている人全般において言っている。
しかし、それ自体悪いことなのか善いことなのかと言う絶対的な基準は残念ながら見極めきらない。多数の習慣が慣習になったとき、つまり受容れられてしまうことで、コミュニティにおける感覚的次元もその域をこえてしまうだろうから。
人の営為でのいたちごっこは続く。
そもそも、それそのものを見ているのか、移っているものを見ているのか。
その風景の次元を考えてみることも、一興である。
真っ直ぐな電線も違う次元では揺らぎくねる。
次元が変われば、でんせん力は弱まるのだ。