① 昨日は作業所の日帰りバス旅行だった。小田原に行って、鈴廣でかまぼこ・ちくわ作り(形成)の体験をし、ビュッフェでランチ。午後は鈴廣の土産物店で買い物し、その後に小田原城へ。天守閣まで上った。バスが小田原インターチェンジより西湘バイパスで茅ヶ崎海岸インターチェンジまで海岸線を走ってくれた。曇り空だったが、凄く嬉しかった。よく海辺に行く岸原さやさんや大西久美子さんのことを想った。食べ物や見物の見どころ、交わされた会話といったもの以外の隙間的なものの豊かさを感じられた一日だった。感謝。
② 今日は普段通りの時間に起床。ルーティン後(7:50頃から)洗濯を開始し、朝食を済ませた後に洗濯物を干せた。感謝。
③ 午前中に聖書黙想を書けた。感謝。
④ 昼食後しばらくしてから、こども園の新しい園舎まで歩いてみられた(所要時間などの確認のため)。感謝。
⑤ 夕方に少し、こども園の誕生会向けの劇の台詞練習(主にスピードのコントロール練習)ができますように。
⑥ 個人的なクリスマスカードをいつ頃に発送するのが良いかなぁ?(バッタバタな12月第一週を乗り切ってからのほうがいいだろうか?そうすると、若干文面の調整が必要になる。)クリスマスカードを焦って、劇の練習が疎かになるのは避けたいが……主よ、その時々で気づきを与えてください。
「祈り」を言葉として口にするのが難しいのは、人に聞かれると思うと緊張するというのもあるだろうけど、自分の祈りの貧弱さに直面させられるからという面も大いにあると思う。祈りを「文言」と捉えると、どうしても自分ツッコミを入れたくなるけど、全部お見通しの神様が私達一人一人と一緒にいて、個人的に時間を過ごしたいと思っていらっしゃると考えれば、少し認識も違ってくるんじゃないのかな。
「執り成しの祈り」って、教会員また非信徒にどう捉えられているのかって気になることの一つ。何かねぇ、[より堅固に信仰に立ってる人がその人より信仰の揺らぎ易い方のために祈る]みたいな、一方向の図式で考えられてないかなぁ、って気がするんだ。優劣の関係みたいな。でもパウロは手紙の中でこうお願いしてるよ。
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<新改訳第三版 ヘブル人への手紙13章18〜19節>
私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
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凄いよねパウロは。「もっと祈ってくれ」って言ってるんだよ。他にもコロサイ人への手紙ではこう書いてる。
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<新改訳第三版 コロサイ人への手紙4章3〜4節>
同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
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「御言葉の恵み深さを、多くの人が理解できるようにはっきり語れるよう祈っててね」とお願いしてるんだよね、パウロは。あのパウロがそう言うなら、教会の指導者や信仰上の先輩、御国の働きのために勤しんでる方のために、どれほど祈りが必要かって、推して知るべし、じゃないのかな?
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<新改訳第三版 ヘブル人への手紙13章3節>
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
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「牢」という語に引っかかってしまう方がいるかもしれないけど、身体の弱さや体調の不如意さで、人知れず苦しんでいる方は多いと思うよ。(あの人、大変じゃないかなぁ?)とかふと思い出して祈ること、大切だと思うなぁ、私は。
よく「祈るだけだよね、クリスチャンは。偽善的よね」と非難する人もいるが、思いを巡らした全員のために何かできるほど、私達は万能ではないと思うよ。だから、窮地にいる誰かを支える方々のことも祈って、さらに自分にもできることを考えていくんじゃないのかな?