宛先のラベルのゆがみ何でもないことの続きにひらく旧約聖書(バイブル)
旧約聖書は振幅の激しいエピソードに溢れている。阪森はそんな旧約を、「何でもないことの続きにひらく」と詠んだ。「何でもないこと」とは何か、解釈は分かれるところだ。受け取った郵便物の宛先ラベルの歪みに少し屈託を浮かべつつも、気を取り直して聖書を開いたというのは実景だったかもしれない。だが、平凡な日々を送りながらその合間にさっと旧約を開いてドラマティックな世界に浸っているという状況も考えられる。阪森は歌壇登場時より信仰を滲ませる歌を発表してきた。この『ボーラといふ北風』という歌集は、還暦を越えて間もなく上梓されており、信仰者としても年月を重ねてきたはずの頃合いである。とすれば、旧約の激しいドラマを「何でもないこと」のように淡々と読んでいる姿もあり得なくはない。私自身、2015年8月から毎日聖書通読を行なっているが、半ば義務的に、単調に読んでしまっている時もあるのは否定できない。
陽の射して朝いちばんに出会ひしは昨夜(ゆふべ)のままの〈須賀敦子集〉
『ボーラといふ北風』のあとがきで阪森は、この時期、須賀敦子のエッセイを貪るように読んでいたことを披瀝している。この歌を以って始まる一連「ボーラといふ北風」は、『ユルスナールの靴』という書名を含む歌を以って締め括られている。私は興味をそそられて、須賀の生前最後の著作『ユルスナールの靴』を手に取った。20世紀フランスを代表する作家ユルスナールに魅せられた須賀が、ユルスナールとその作品の作中人物の精神遍歴を自分の生きた軌跡と重ね、ユルスナールゆかりの地を訪れて言葉を紡いでいく。『ハドリアヌス帝の回想』をめぐって書かれた章「皇帝のあとを追って」では、ユルスナールが21歳と早いうちからこの皇帝に着目したにも拘らず、なかなか作品の結実に至らず完成まで四半世紀のあいだ想を練り続けた経緯を追っている。書けば書くほど細部ばかりが雑草のようにはびこって、皇帝という一人の男が目で見、耳で聞いた世界を生きたものとして描くのは、若き自分の手に負えることではなかったとユルスナールは述懐する。
最近私がツイッターで拾ったブログの記事に、こんな一節があった。「読書の孤独はじっさいに本を読んでいる間だけでなく、むしろ読み終えてそれについて考えている長い時間の方にあるんだよ、とか。そしてその長い時間というのは、わたしがその本のことをすっかり忘れてしまうくらいの、ほんとうにほんとうに長い時間なんだよ、とか」(『フラワーズ・カンフー*小津夜景日記』より)。耽溺していた読書をふと離れ、海ばかり見て十年ほど過ごした小津氏が海からの語りかけのように得た想念である。
阪森の次の歌集『歳月の気化』に、次のような歌がある。
文献の中を旅する日のあらば雪の小径をゆくがごとくに
道草はいつもの習慣ときをりは記憶を耕すふうの読みかた
阪森もまた、様々な文献を旅し道草も食いつつ、いつか咲く言葉の数々を人知れず温めているのだろうか。
通読は、日課として生活に組み込まれているからこなせる作業であるのは事実だ。しかし、続けていなければ見えてこない「景色」も確実にある。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」と箴言16章9節に記されている約束に目を留め、これからも歩んでいけたらと思う。
阪森郁代『ボーラといふ北風』
旧約聖書は振幅の激しいエピソードに溢れている。阪森はそんな旧約を、「何でもないことの続きにひらく」と詠んだ。「何でもないこと」とは何か、解釈は分かれるところだ。受け取った郵便物の宛先ラベルの歪みに少し屈託を浮かべつつも、気を取り直して聖書を開いたというのは実景だったかもしれない。だが、平凡な日々を送りながらその合間にさっと旧約を開いてドラマティックな世界に浸っているという状況も考えられる。阪森は歌壇登場時より信仰を滲ませる歌を発表してきた。この『ボーラといふ北風』という歌集は、還暦を越えて間もなく上梓されており、信仰者としても年月を重ねてきたはずの頃合いである。とすれば、旧約の激しいドラマを「何でもないこと」のように淡々と読んでいる姿もあり得なくはない。私自身、2015年8月から毎日聖書通読を行なっているが、半ば義務的に、単調に読んでしまっている時もあるのは否定できない。
陽の射して朝いちばんに出会ひしは昨夜(ゆふべ)のままの〈須賀敦子集〉
『ボーラといふ北風』のあとがきで阪森は、この時期、須賀敦子のエッセイを貪るように読んでいたことを披瀝している。この歌を以って始まる一連「ボーラといふ北風」は、『ユルスナールの靴』という書名を含む歌を以って締め括られている。私は興味をそそられて、須賀の生前最後の著作『ユルスナールの靴』を手に取った。20世紀フランスを代表する作家ユルスナールに魅せられた須賀が、ユルスナールとその作品の作中人物の精神遍歴を自分の生きた軌跡と重ね、ユルスナールゆかりの地を訪れて言葉を紡いでいく。『ハドリアヌス帝の回想』をめぐって書かれた章「皇帝のあとを追って」では、ユルスナールが21歳と早いうちからこの皇帝に着目したにも拘らず、なかなか作品の結実に至らず完成まで四半世紀のあいだ想を練り続けた経緯を追っている。書けば書くほど細部ばかりが雑草のようにはびこって、皇帝という一人の男が目で見、耳で聞いた世界を生きたものとして描くのは、若き自分の手に負えることではなかったとユルスナールは述懐する。
最近私がツイッターで拾ったブログの記事に、こんな一節があった。「読書の孤独はじっさいに本を読んでいる間だけでなく、むしろ読み終えてそれについて考えている長い時間の方にあるんだよ、とか。そしてその長い時間というのは、わたしがその本のことをすっかり忘れてしまうくらいの、ほんとうにほんとうに長い時間なんだよ、とか」(『フラワーズ・カンフー*小津夜景日記』より)。耽溺していた読書をふと離れ、海ばかり見て十年ほど過ごした小津氏が海からの語りかけのように得た想念である。
阪森の次の歌集『歳月の気化』に、次のような歌がある。
文献の中を旅する日のあらば雪の小径をゆくがごとくに
道草はいつもの習慣ときをりは記憶を耕すふうの読みかた
阪森もまた、様々な文献を旅し道草も食いつつ、いつか咲く言葉の数々を人知れず温めているのだろうか。
通読は、日課として生活に組み込まれているからこなせる作業であるのは事実だ。しかし、続けていなければ見えてこない「景色」も確実にある。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」と箴言16章9節に記されている約束に目を留め、これからも歩んでいけたらと思う。
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