針金を荷札にとほす手仕事を繰り返しゐる老人(おいびと)よりて
遠山光栄『褐色の実』
遠山光栄は1910年生まれの歌人で、『褐色の実』は、1956年に刊行された第三歌集である。遠山の略歴を見、また歌集中の歌を読むと、遠山自身は割合恵まれた境遇にいたようで、この掲出歌は障がい者施設を訪れた際に深く印象に残った景を詠んだ一連「養育院」に置かれている。そうなると、この情景はもう七十年近く昔のことであり、今の障がい者施設等の様相と簡単に結びつけて考えることは不適切には違いない。しかし障がい者を取り巻く状況が劇的に改善された、と一括して話を済ませることも短絡的に思われる。
2015年発行の堀田季何の歌集『惑亂』に、次の歌がある。
障碍者作業所訪問
竹の山づみに竹かごふんだんにあれどもなぜか吾も編まさる
堀田は身体的な疾患を複数抱えながらも、今や詩歌のジャンルを越境して活躍する文芸家である。堀田が作業所を訪問したのはそれなりに前のことになるのであろうし、自身の就労支援体験のためではなかったと推察される。けれど、作業所職員は堀田に竹かごを編ませている。私の働いている作業所でも、ボランティアでお越しになった方に直接収益には繋がらない作業を手伝っていただいている場面を何度か見かけたことがある。
世間から取りこぼされてしまった人達に、視える「具体的な仕事」を与えるのが作業所である。勿論、通所して規則正しい生活リズムを作ることや、「作業療法」としての手仕事は、それなりに障がい者の生活の質を高めることに寄与している面もあろう。だが、私の作業所でも通所者の半数以上が一般企業などで働いて収入を得ていた社会経験をお持ちの方である。それが、(これ何の意味あるの?)という作業を、ただ手を動かすのが目的のために働かされて、何の虚しさも抱かずやり過ごせるかと言ったら、甚だ疑問である。
厚生労働省が策定した、安定した職業生活のための職業準備性のモデルとして「職業準備制ピラミッド」というものがある。ピラミッドの下の階層から、①健康管理・病気の管理・体調管理、②生活のリズム・日常管理、③対人技能、④基本的労働習慣、⑤職業適性、の五段階に序列がつけられている。各段階の具体的な項目などを見ると、参考になる部分もあるのだが、一律的に考えることには私は懐疑的である。例えば、起床や身だしなみ等の②[生活のリズム・日常管理]に該当することができている方でも、自分の障害・症状の理解[①健康管理・病気の管理・体調管理]ができていない人も結構いるし、作業意欲や持続力などの④[基本的労働習慣]がしっかりしている人でも、非言語的コミュニケーションや意思表示などの③[対人技能]が不得手な人も見受けられる。このピラミッドの順番に拘り過ぎると、一人一人で異なる良さを潰す形式主義に陥ることも十分考えられる。
コリントの信徒への手紙 一 12章 14〜25節に、こういう聖句がある。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
私自身のことを言えば、就労能力の自覚(作業適性)や指示理解などの[⑤職業適性]はあるほうだと思うが、協調性や感情のコントロール[③対人技能]ではやや欠けがあると自覚している。しかし、作業所の仕事や掃除などの様々な場面において他のメンバーや職員とのやり取りを通じて、自分には盲点だったこと、さらに自分の元々の作業手順よりも楽で効率の良いコツなど、色々な事柄に気づかせてもらえている。援助の要請(SOS発信)などは①[健康管理・病気の管理・体調管理]に含まれているのだが、この点は私の苦手とするところで、人の勤労意欲を削がないSOSの発信の仕方は、他のメンバーを見ていて、この一,二年でやっと習得したことである。
私は作業所に来た当初、一刻も早く一般就労に戻りたかった。ある程度の稼ぎがある仕事をしていないと〈人間じゃない〉—— というような世間の風当たりを感じていたからである。今は、「就労」だけが道ではない、と思う。目には付かないかもしれないが、障がい者だって社会の歯車として働いている。部品等の請負作業の単価が安いからこそ、末端の消費者が購入可能な価格で企業も商品を販売できている面もあろう。そう考えれば、工賃を闇雲にupもできないだろう。私は職員に、金銭の多寡だけでメンバーを判断してほしくない、と思う。「もっと働け!そうすれば、もっと工賃を上げるから」と言う以上に、地道にこなしている日々の作業がこうして社会を回す一つの力になっているんだよ、と目を開かせてもらえたら、と心底願う。
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