被災地と言っても広い。被災者も同様に、さまざまな被災状況にある。
私が行った宮城県松島だけでも、場所によって目も当てられない有様のところと少しずれただけで家がしっかり残っているところがあった。行ったときには不思議だったが、帰ってきて地図で確認したら(そうだったのか)とわかった。
今回のボランティア活動は、宮戸島だった。奥松島と言われている。地図で見ると、瑞巌寺があるJR松島海岸駅から1時間ほど石巻の方へ進むと、そこから太平洋に突き出て、松島湾と石巻湾を隔てているのが、この宮戸島だ。島の太平洋側は大変な被害を受けたというが、私たちが行ったのは松島湾側の縄文村歴史資料館があるところだった。そこは、宮古島の中で最も波が静かでのどかなところだった。はるか昔の縄文人たちがそこに村をつくったのも頷ける。
津波は太平洋側の地域に壊滅的被害を与えたが、裏側のここでは、波が膨れ上がったり引いたりしただけだったと、地元に代々住んでいる海苔の養殖家尾形さんが教えてくれた。
しかし地図で見れば、この島はどれほど酷いことになっただろうと思うのも当然だ。
3月11日、島の高台にある宮戸小学校に900人もの島人が避難していたのに、救助隊は来なかった。てっきり全員死んだと思われたのだそうだ。3日後、何とか連絡が着くまで、また連絡が着いてからもしばらくは、島民は自分たちで食料を分け合い、服もパンツも分け合い、養殖場から逃げた鮭を捕まえて、学校の運動場で焼いて食べたりして生き延びていた(「おれら、漁師だからね、魚ぐらいどうやってでも捕まえるさ。」と尾形さんが赤銅色に日焼けした顔で二マッと笑った。)
尾形さんの話で印象に残っていることがいくつもある。その中から少しだけでもここに書き留めたい。
結局この島の犠牲者は一人だけだった。犠牲者が奇跡的に少なかったことで、島民の結束はとてもうまくいっているそうだ。他の被災地域では人々の避難生活の苦しさの一つに、人間関係の難しさが上げられている。冗談を言っても、冗談で通る余裕がみんなの心にあるかないかで、避難生活はずいぶん違う。
しかし、ボロボロで全壊でも一応家の形が残った尾形さんは、跡形もなく家が流された近所の人の気持ちを気遣って、ボランティア活動後に記念撮影する際、その近所の人たちの土地の傍では決して首を縦にふらなかった。和気藹々とした雰囲気が、心に辛く思える人たちがたくさんいるのだ。
これから先の遠いことを話した時、ボランティアで参加していた中学生に
「大変ですね。」
と言われ、尾形さんは
「大変だ、と言わないように、考えないようにしているんだ。」
と返事をした。中学生は
「楽観的な考えですね。」
と言ったそうだ。尾形さんはそのことを、ボランティア活動が終わったときに触れて、
「大変に決まってるべさ。だから昼間、みんなと居るときだけでも、その言葉は言わねえようにしているんだ。どうせ夜になったら、毎晩その大変さに押しつぶされそうになってんだから。」
と話した。
尾形さんは、
「いや~、俺の人生でこんな美しい女性たちと一緒に網張りするなんて初めてだ~。」
と、へっぴり腰且つ、慣れない手つきで作業する我々を労ってくれた。私たちは、12枚1セットの網を、1日半で10セット作った。しかし、9月までに100セット作らなければならない。更に、その網を海上で広げるときに筏が要る。それも100台作らなければならない。他にもいっぱいしなければならないことがある。
全国からどんどん、ボランティアが出かけていけば、それは可能だ。人手が本当に本当に今、必要なのだ。
最後に、尾形さんの近所の奥さんが、
「今度は観光旅行で遊びに来てね~~~!」
と手を振ってくれた。勝手に涙が出てきた。必ず、行こう。東北を忘れないでいよう。
私が行った宮城県松島だけでも、場所によって目も当てられない有様のところと少しずれただけで家がしっかり残っているところがあった。行ったときには不思議だったが、帰ってきて地図で確認したら(そうだったのか)とわかった。
今回のボランティア活動は、宮戸島だった。奥松島と言われている。地図で見ると、瑞巌寺があるJR松島海岸駅から1時間ほど石巻の方へ進むと、そこから太平洋に突き出て、松島湾と石巻湾を隔てているのが、この宮戸島だ。島の太平洋側は大変な被害を受けたというが、私たちが行ったのは松島湾側の縄文村歴史資料館があるところだった。そこは、宮古島の中で最も波が静かでのどかなところだった。はるか昔の縄文人たちがそこに村をつくったのも頷ける。
津波は太平洋側の地域に壊滅的被害を与えたが、裏側のここでは、波が膨れ上がったり引いたりしただけだったと、地元に代々住んでいる海苔の養殖家尾形さんが教えてくれた。
しかし地図で見れば、この島はどれほど酷いことになっただろうと思うのも当然だ。
3月11日、島の高台にある宮戸小学校に900人もの島人が避難していたのに、救助隊は来なかった。てっきり全員死んだと思われたのだそうだ。3日後、何とか連絡が着くまで、また連絡が着いてからもしばらくは、島民は自分たちで食料を分け合い、服もパンツも分け合い、養殖場から逃げた鮭を捕まえて、学校の運動場で焼いて食べたりして生き延びていた(「おれら、漁師だからね、魚ぐらいどうやってでも捕まえるさ。」と尾形さんが赤銅色に日焼けした顔で二マッと笑った。)
尾形さんの話で印象に残っていることがいくつもある。その中から少しだけでもここに書き留めたい。
結局この島の犠牲者は一人だけだった。犠牲者が奇跡的に少なかったことで、島民の結束はとてもうまくいっているそうだ。他の被災地域では人々の避難生活の苦しさの一つに、人間関係の難しさが上げられている。冗談を言っても、冗談で通る余裕がみんなの心にあるかないかで、避難生活はずいぶん違う。
しかし、ボロボロで全壊でも一応家の形が残った尾形さんは、跡形もなく家が流された近所の人の気持ちを気遣って、ボランティア活動後に記念撮影する際、その近所の人たちの土地の傍では決して首を縦にふらなかった。和気藹々とした雰囲気が、心に辛く思える人たちがたくさんいるのだ。
これから先の遠いことを話した時、ボランティアで参加していた中学生に
「大変ですね。」
と言われ、尾形さんは
「大変だ、と言わないように、考えないようにしているんだ。」
と返事をした。中学生は
「楽観的な考えですね。」
と言ったそうだ。尾形さんはそのことを、ボランティア活動が終わったときに触れて、
「大変に決まってるべさ。だから昼間、みんなと居るときだけでも、その言葉は言わねえようにしているんだ。どうせ夜になったら、毎晩その大変さに押しつぶされそうになってんだから。」
と話した。
尾形さんは、
「いや~、俺の人生でこんな美しい女性たちと一緒に網張りするなんて初めてだ~。」
と、へっぴり腰且つ、慣れない手つきで作業する我々を労ってくれた。私たちは、12枚1セットの網を、1日半で10セット作った。しかし、9月までに100セット作らなければならない。更に、その網を海上で広げるときに筏が要る。それも100台作らなければならない。他にもいっぱいしなければならないことがある。
全国からどんどん、ボランティアが出かけていけば、それは可能だ。人手が本当に本当に今、必要なのだ。
最後に、尾形さんの近所の奥さんが、
「今度は観光旅行で遊びに来てね~~~!」
と手を振ってくれた。勝手に涙が出てきた。必ず、行こう。東北を忘れないでいよう。