悲しくて途方に暮れる話をしなければならない。
李達夫さんのことだ。
李さんは中国残留日本人帰国者二世。1943年、当時の満州帝国吉林省吉林市で生まれた。お父さんは中国人、お母さんは日本人だった。兄弟姉妹5人の末っ子だ。お母さんの希望で、長姉と達夫さんの二人が日本人として日本大使館に届け出た。
その後の李さんの人生は、日本の敗戦、満州帝国の崩壊、中国革命の進展と変節、文化大革命という激動の中で、どれほど厳しい道のりだったかは、想像に難くないと思う。
日本人のお母さんから教えられた誠実さ・勤労奉仕・我慢強さ・思い遣りの心をしっかり身に着けた彼は、日本人であることで大学に入れず、13年間農場で勤労奉仕させられ、文革期には「牛棚」という農場内監獄で20代の後半を過ごさざるを得なかった。
その彼を支えたのは、中国人の素媛さんだった。彼女は達夫さんの「姿のよさと心のよさ」(素媛さん談)に惚れ込み、家族の猛反対を押し切って結婚した。素媛さんがいなかったら、李達夫さんはどうなっていたか分からない。
李さんは奥さんのことを聞かれると、必ず
「家内は、私が一番苦しいときに助けてくれました。ずっと感謝しています。」
と答えた。
結婚後も様々なことがあったに決まっている。しかし、二人は支え合って40年の月日を共にし、2003年、李さんが60歳のとき、夫婦で李さんのお母さんの国日本にやって来た。
この年齢で新たにゼロから言語をマスターするのは困難を極める。それでも、李達夫さんは、毎週大阪YWCA内にある中国帰国者支援センターで日本語を学んでいる。奥さんと日本社会の橋渡しのためにも、彼ががんばるしかない。
数年前、私が心ある友人とともに始めたボランティア団体「帰国者の友」のイベントには、いつも夫婦二人そろって参加されていた。李さんが南港で釣ってきた太刀魚を素媛さんが唐揚げにして,みんなに振舞ってくれた。帰国者の友のパーティーには付き物の看板料理だ。
その李達夫さん・素媛さんが今年7月後半、突然大阪から姿を消した。
いつも日本語教室で仲良しの玲奈さんが、何回も家に電話したが、電源が切られていた。
8月7日は、私が一時帰国しているのでパーティーを開く予定になっていた。他にどんな用事があっても、その用事の方をキャンセルして、こちらの会を優先させてくれていたご夫婦なので、玲奈さんは何があったのか、やきもきしていた。
心配は的中した。
李達夫さん・素媛さんの娘さんが急死されたのだった。帰国者センターの日本語クラスに連絡する余裕もなく、取るもの取り合えず娘さんの住む貴州に飛んで行ったのだろう。まだ34歳の若さの愛娘の死に遭遇して取り乱さない親はいない。
葬式の後、傷心の二人は北京まで戻ってきたが、不幸はさらに追い討ちをかけた。
素媛さんがホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折する大怪我をし、一時意識不明の重態になったというのだ。
8月7日、私の一時帰国を祝うパーティーの最中、北京の李達夫さんから電話が入った。
娘さんが突然亡くなった事、その後、北京のホテルで妻が階段から転落し、現在入院中であること、意識は戻ったが、記憶がないことなど、習い覚えた日本語で説明してくれた。
私はこのときほど、中国語が話せないことを悔やんだことはない。
(何か李さんに言わなければ。彼が少しでも踏ん張れる力になる言葉を!)
と、焦るばかりで、口をついて出てくる言葉は日本語で、
「大丈夫、きっと大丈夫だから。きっと良くなるから。心配しないで。」
とか、あまりにも説得力に欠けるものばかりだった。
「今日のパーティーに行く予定でした。行けなくなりました。申し訳ありません。」
と言われて、絶句した。
どうして、李さんがこんな酷い目に遭わなければならないのか。
傍の人に替わったとき、電話は切れていた。
李達夫さんは、現在北京の病院で素媛さんに付き添っている。病院の名前は分からない。
連絡は、李さんが携帯を持っていないので、こちらからはできない。李さんはカードを買って、高い電話代が尽きるまで話をしたのだ。
日本の生活保護を受けている素媛さんは、海外の病院代までは払ってもらえない。もう、手術代などで20万元(日本円で240万円以上)を病院に支払ったそうだ。もちろん、親戚や友人からお金を借りて。
これから、素媛さんの容態が落ち着いたら、日本に帰って来られるが、それまでは実費で病院代を払わなければならない。どれほどの金額になるか見当もつかない。
李さんのために何ができるだろう。
まずお金だ。お見舞金だ。次に、励ましだ。メールも何も使えないが、彼に何とかして手紙を届けなければ。
このブログを読んで、李さんのために何かしようと思ってくださる方がいましたら、下記までご連絡くださいませんか。心からお願いします。
bluehearts_10_11@mail.goo.ne.jp
李達夫さんのことだ。
李さんは中国残留日本人帰国者二世。1943年、当時の満州帝国吉林省吉林市で生まれた。お父さんは中国人、お母さんは日本人だった。兄弟姉妹5人の末っ子だ。お母さんの希望で、長姉と達夫さんの二人が日本人として日本大使館に届け出た。
その後の李さんの人生は、日本の敗戦、満州帝国の崩壊、中国革命の進展と変節、文化大革命という激動の中で、どれほど厳しい道のりだったかは、想像に難くないと思う。
日本人のお母さんから教えられた誠実さ・勤労奉仕・我慢強さ・思い遣りの心をしっかり身に着けた彼は、日本人であることで大学に入れず、13年間農場で勤労奉仕させられ、文革期には「牛棚」という農場内監獄で20代の後半を過ごさざるを得なかった。
その彼を支えたのは、中国人の素媛さんだった。彼女は達夫さんの「姿のよさと心のよさ」(素媛さん談)に惚れ込み、家族の猛反対を押し切って結婚した。素媛さんがいなかったら、李達夫さんはどうなっていたか分からない。
李さんは奥さんのことを聞かれると、必ず
「家内は、私が一番苦しいときに助けてくれました。ずっと感謝しています。」
と答えた。
結婚後も様々なことがあったに決まっている。しかし、二人は支え合って40年の月日を共にし、2003年、李さんが60歳のとき、夫婦で李さんのお母さんの国日本にやって来た。
この年齢で新たにゼロから言語をマスターするのは困難を極める。それでも、李達夫さんは、毎週大阪YWCA内にある中国帰国者支援センターで日本語を学んでいる。奥さんと日本社会の橋渡しのためにも、彼ががんばるしかない。
数年前、私が心ある友人とともに始めたボランティア団体「帰国者の友」のイベントには、いつも夫婦二人そろって参加されていた。李さんが南港で釣ってきた太刀魚を素媛さんが唐揚げにして,みんなに振舞ってくれた。帰国者の友のパーティーには付き物の看板料理だ。
その李達夫さん・素媛さんが今年7月後半、突然大阪から姿を消した。
いつも日本語教室で仲良しの玲奈さんが、何回も家に電話したが、電源が切られていた。
8月7日は、私が一時帰国しているのでパーティーを開く予定になっていた。他にどんな用事があっても、その用事の方をキャンセルして、こちらの会を優先させてくれていたご夫婦なので、玲奈さんは何があったのか、やきもきしていた。
心配は的中した。
李達夫さん・素媛さんの娘さんが急死されたのだった。帰国者センターの日本語クラスに連絡する余裕もなく、取るもの取り合えず娘さんの住む貴州に飛んで行ったのだろう。まだ34歳の若さの愛娘の死に遭遇して取り乱さない親はいない。
葬式の後、傷心の二人は北京まで戻ってきたが、不幸はさらに追い討ちをかけた。
素媛さんがホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折する大怪我をし、一時意識不明の重態になったというのだ。
8月7日、私の一時帰国を祝うパーティーの最中、北京の李達夫さんから電話が入った。
娘さんが突然亡くなった事、その後、北京のホテルで妻が階段から転落し、現在入院中であること、意識は戻ったが、記憶がないことなど、習い覚えた日本語で説明してくれた。
私はこのときほど、中国語が話せないことを悔やんだことはない。
(何か李さんに言わなければ。彼が少しでも踏ん張れる力になる言葉を!)
と、焦るばかりで、口をついて出てくる言葉は日本語で、
「大丈夫、きっと大丈夫だから。きっと良くなるから。心配しないで。」
とか、あまりにも説得力に欠けるものばかりだった。
「今日のパーティーに行く予定でした。行けなくなりました。申し訳ありません。」
と言われて、絶句した。
どうして、李さんがこんな酷い目に遭わなければならないのか。
傍の人に替わったとき、電話は切れていた。
李達夫さんは、現在北京の病院で素媛さんに付き添っている。病院の名前は分からない。
連絡は、李さんが携帯を持っていないので、こちらからはできない。李さんはカードを買って、高い電話代が尽きるまで話をしたのだ。
日本の生活保護を受けている素媛さんは、海外の病院代までは払ってもらえない。もう、手術代などで20万元(日本円で240万円以上)を病院に支払ったそうだ。もちろん、親戚や友人からお金を借りて。
これから、素媛さんの容態が落ち着いたら、日本に帰って来られるが、それまでは実費で病院代を払わなければならない。どれほどの金額になるか見当もつかない。
李さんのために何ができるだろう。
まずお金だ。お見舞金だ。次に、励ましだ。メールも何も使えないが、彼に何とかして手紙を届けなければ。
このブログを読んで、李さんのために何かしようと思ってくださる方がいましたら、下記までご連絡くださいませんか。心からお願いします。
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