毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

学生の作文「がんばれ日本」①     2011年9月18日   No.194

2011-09-18 13:07:50 | 中国事情
 春、日本僑報社主催の「第七回中国人の日本語作文コンクール」に3年生と2年生の合わせて40人が応募した。3年生は授業の中で課題として与えたものだった。主催者によると全部で3100通以上もの応募があったという。今回のテーマが「頑張れ日本 ―千年不遇の災害に遭った日本人へ―」というものだったためと思う。
 40人の応募者の中で一人入賞者があった。その詳しい発表は今月末ということなので、ブログでは一足先に、入選しなかった学生の文をいくつか紹介したい。私は作文を読んで、彼女ら・彼らについて初めて知ることがたくさんあった。まだ友だちにも言ったことがない自分について、初めて書くという子もいた。その真正面から書くことに取り組む態度に、心が震えることもたびたびだった。
 実は日本から持参したUSBメモリーが潰れたので(まさかの事態!)、ここに紹介できるのは、偶然他に記録が残っていたものだけだ。本当に悔しい…。


              「日本、頑張れ」 王○紅
 2011年3月11日、金曜日。南昌の天気は晴れでした。午後5時頃、私は外から寮に帰って、ルームメートに話しかけました。
「ただいま! 黄さん、今日また授業をサボったんじゃない?午後の授業はたくさんの学生がサボったから、先生は怒ってたよ!」
「・・・・・・。」
 なんか泣いている声が聞こえました。黄さんがカーテンの中で、泣きながら、パソコンを見ていたのです。まもなく黄さんはカーテンをめくり上げて外に出てきました。
「日本でまた地震が発生した。午後二時頃、宮城はマグニチュード8.9だって。私はずっと日本被災地の現場を見て、ずっと泣いていたの。昼休みもしなかった・・・。」
「ああ、まさか!」
「この現場の映像を見て!」
 実は日本で地震が発生したと聞いたその瞬間は平気でした。日本はもともと地震大国で、、日本のみんなも定期的に避難訓練などをしていて、慣れていると思っていました。少しくらいの地震なら、何もなかったかのように生活を続けるでしょう。昔から、日本人は世の中の恐ろしい物事の順位を「地震、雷、火事、おやじ」と表現しています。日本列島各地で地震は頻繁に発生しています。 
 しかし、黄さんが見せた映像を見て、私は実際にそこにいるように驚きました。地震と共に、津波も起こりました。画面で、水は家屋、道路、建物全部を飲み込みました。たくさんの海ゴミが海岸に巻き上がりました。陸上のたくさんの建物や生活品も海ゴミになりました。

 数日後、またパソコンに向かう黄さんに聞きました。
「今、日本はどうなってるの?地震はもう終わったの?」
「終わるわけないよ。今、みんなは被災者と生存者を探して救助しているんだよ。日本観光していたある中国人が新浪ツイッターで援助を求めた話が載っている。彼の奥さんはあの日に出産したそうだよ。子供が生まれそうになったけど、地震のせいで帰国できなくて、また日本語もできなくて、彼は必死で中国新浪ツイッターで助けを求めたの。幸いことにその新浪ツイッターを日本人も見ていて、日本にいる医師の友達を頼んで、奥さんを助けたの。子供も無事に生まれたんだって。」
 「ほんとに危ないとこだったね!もし医師がいなかったら、出産ができなかったでしょう。新浪ツイッターもすごいね。」
「そうね。今、新浪ツイッターでたくさん励ましの言葉が出ているよ。」

 余震は何日も続けて次々に発生しました。
「もうやめて!」
世界中の人々が叫んでも、天災はほんとうに無情です。家はなくなり、廃墟になりました。親友も亡くなりました。帰る場所がない人々は廃墟を前に、泣き出しました。その涙は、どうしようにもしかたがない絶望の気持ちが溢れ出したものだと思います。
 でも、天災は無情ですが、人は情けのあるものです。世界の人々は手をさしのべて、寄付したり、生活比需品を提供したり、考えられる様々な方法で日本を助けています。

 地震・津波の前に、一人一人が人生をかけて、一生懸命作った美しい世界や生活も全部なくなりました。でも、人の命が無事なのは今一番の幸いです。中国には「木の生えている山がある限り,薪の心配はない」という言葉があります。つまり命の綱が切れないかぎり,将来の望みは持てる。日本にも、「捨てる神あれば拾う神あり」と言う諺がありますね。だから、みんな元気を出して、この天災を乗り越えて、今度も新しい世界を作りましょう。死んだ人は安息して、生存者は発奮しなければなりません。決して希望を捨てることなく、身体を大切に日々を生き抜いていこう。どんなに難しくても、どんなに辛くても、続く未来は絶対明るくなります。全てがよくなります。
 今、口だけじゃなくて、心から「日本、頑張れ!」と叫びたい。本当は、地震の現場に行きたい。被災者を実際に助けたいのです。言葉より行動です。でも私が今できるのはこの文を書くことだけです…。
 最後に、人生には、思いも掛けない出来事が降りかかります。逃れたくても、逃れられない出来事が降りかかります。しかし、人生は続いていきます。これから続く人生は、悪いことばかりじゃない。きっといいことがあります。私はそれを信じています。

 そして、今持っているものを心から愛し、大切にしましょう。いつなくなっても、全力で愛したそのことはいつまでも消えないのですから。




         「日本、頑張れ」 ―一滴の水も、海になる―  劉思○
 「本日午後2時46分頃、東北の太平洋沿岸でマグニチュード9.0という国内の観測史上最大の地震がありました。」
「続いて、地震発生から30分後、福島県では7メートルを超える大津波が観測されています。」
「原子力安全保安院によりますと、12日午前11時1分、東京電力福島第一原子力発電所の一号機から爆発音がして、大量の煙が上がりました。」

 三重の災難が日本を襲った。日本人だけでなく、世界の人々も肝を潰した。地震、津波、放射能漏れ、次々と連発して、未曾有の大災害になってしまった。
 私は中国の丘陵地帯に住んでいて、未だかつて地震や津波などの災難に襲われたことがない。そのことは、地震や津波などの災難の怖さを想像することもできないということでもある。想像できるのは家族や友達を失ったときの辛さである。

 家族と言えば、日本人の家庭について人伝えに聞かされてきたことがある。
「家族と一緒にいる時間が少ない。家はあるけど、家族がない。」「日本人の家族の愛情は、近年、薄まってきている。」
といったことだ。日本人の家庭に直に接することがなかった私は、このような噂を単純に信じてしまっていた。
 しかし、インターネットで災害後の映像を見ると、実景は大きく異なっていた。
「よかった、やっと会えた。嬉しい。」
ある六十歳くらいの男性は涙を拭きながら、娘を抱きしめた。ローカル線に沿って何日も歩き続け、娘を探していたという。ようやく再会できたときの喜びはどれほどだったろう。
 私は子供を生んだことがないので、親の子どもへの愛情が本当にわかったとは言えない。中国の古い諺に「子を持って知る親の恩」という言葉がある。自分も親になったら、きっと親の深い愛情も実感できるだろう。

「どこに逃げたの……兄ちゃんってば。」
ある八歳くらいの女の子がお母さんの太ももにしがみつき、泣きながら聞いていた。小さい頃から一緒にいるお兄さんの姿が急に見えなくなって、妹の心はどんなに寂しいだろう。
 私は一人の弟がいる。私が彼をどれほど大事に思っているか、口で言い表すことはできない。弟は弟で、年下だが、いつもお兄さんのように私のことを気遣っている。
 大学の専門を決めるとき、両親は私が日本語学科を選ぶことに激しく反対した。財経大学に入って、会計でも学び、卒業してから、故郷に帰る。そして、嫁になって、子を産み、安定した一生を送る。これが両親の私に対する希望だった。
 しかし、それは私の希望ではない。私は、日本について学びたかった。
「古代から中日は強くつながってきた。両国にはいろいろなことがあったが、互恵平等はやはり歴史の流れであると私は信じる。だから、私は両国の友好のために、自分の力を尽くして、何かをしたい。」
弟にそう愚痴をいった。すると、弟は精一杯両親を説得してくれた。弟のおかげで、私は今日本語が学べる。(もし、弟に何かあったら、弟の代わりに私は何でも背負う。ただひたすらに弟を守って、ともに人生の長い道を歩いて行こう。)私はいつもそう思っている。                     

   災害に遭った日本の人々のニュースを見聞きする中で、私は日本人の心の奥にある家族への深い愛情を感じた。欧米人のように情熱的に自分の愛情を表現しないので、時に冷ややかに見えることがあったとしても、日本人は心の深いところで、身内や周りの人のことを大切に思っているのだ。       

   人々が周りの人に優しく気を遣い、その優しさの輪を広げていったら、きっと世界も一つになるだろう。私は今学生で、世界の舞台に立つ機会もない。しかし、私は大学卒業後、自分が学んで得た日本語の力を活かして、少しでも中日間の架け橋になりたい。世界の人々が一つになる輪の中に、私も一人の中国人として参加したい。力は小さくても、私ができる何かを見つけ、よりよい世界に力を尽くしたい。歯を食いしばって復興を目指す日本の人々とともに。
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