たった今ブログを開くためにインターネットのホームページ画面を見たら、
「大江さんら脱原発呼びかけ、6万人大集会」の見出しが目に飛び込んできた。すごい!もうちょっとで10万人だ!関西でも10月2日に「さよなら原発1000人集会」があるという。1000人と言わず、1万人ぐらい集まらないかなあ。
さて、前置きは終わり。作文、作文。
昨日の王○紅さんも劉思○さんも女子学生だ。今日は、男子学生3人の作文を紹介する。
王本○さんは、尖閣諸島問題の時、「日本語を学び続けるのが苦痛だ。日本が憎い。」と書いていた学生。
陳礼○さんも、「ドイツは反省したのに日本は…。」と昨年冬に書いた子だ。陳さんはその後、私とのメールのやりとりの中で「日本の人たちも戦争で大変な被害に遭われたと、想像もしていなかった。一方的なことを言って大変失礼なことをしました。」と言ってくれた子だ。
最後の○旭さんは、初め、作文が書けないからと言って、クラスメイトのを丸写しし、私に
「3年間も日本語を勉強して、作文の1つも書けないとは!さらに人のを盗作するとは!恥を知りなさい。これでは4年生には進級できません。」
と言わせた子である。その後何とか自分で絞り出したのが、下の文だ。
「日本、頑張れ!」 王本○
西暦2011年3月11日。
これは全ての日本人が覚えるべき日というより、全ての生命を愛する人間が胸に刻みつけるべき日である。不幸に奪われた命のために。
マグニチュード9.0、「千年一遇」と言われる今回の大地震がこの日、日本の東北地方を襲った。この地震は日本の経済及び全世界の経済にも、日本の人々の生活にも、大きなマイナスの影響をもたらした。しかし、これはちっとも構わないとは言えないが、絶対最悪な状況ではない。人さえいれば、ものはまた造れるのである。だが、悲しいことに災害の中で犠牲になった二万余りの人の命は永遠に戻って来ない。
地震の翌日、インターネットで衛星が撮った被災地の写真を見た。それは目も当てられないほどの惨状だ。その画面を頭に浮かべるたびに、心が絞られる気がする。
第二次世界大戦の時のことが原因で、私は小さい頃から日本に対して消そうとしても消せない嫌悪感を抱いている。しかし、最近は日本人に同情する気持ちが心に燃え始めてきた。長年、心に定着したその嫌悪感に抵抗するために、口実を探そうとは思わない。今はただ、同情を感じているのだ。日本の皆さんが困難を乗り越えるように、衷心に祈っている。
日本人は困難を乗り越えられるに違いないと信じている。これは歴史にきちんと検証されているのである。日本は古代から災害頻発の国なのは、全世界の人も知っていることである。現代史の中では1923年の関東大地震や、1995年の阪神大地震などさまざまな巨大自然災害が日本に空前の災難をもたらしたが、いずれも日本を滅亡させられなかった。日本が好きじゃない者にとっては認めたくないとしても、日本民族は古来、災難に育てられてきた強靭な性質を持っている民族だということは事実である。
これを書きながら、私は、去年、私が自分自身の病気に苦しんでいた頃に、日本のあるドラマに励まされたことを思い浮かべている。「1リットルの涙」というドラマである。女主人公は15歳の時に脊髄小脳変性症と診断された。しかし、その女の子はこれで落ち込んでしまわなかった。彼女は悲しみながらも、前向きに命の終点まで精いっぱい生きた。このドラマを見ている時、何度も涙を流した。彼女はどんなに大きな勇気を持っている人だったろう。
このドラマを見たあと、やっと本当に一つのことがわかった。人は生きてさえいれば、希望がある。生きてさえいれば。だから、諦めてはいけません。
朗らかな朝に東の朝日に向かって叫びたい。「日本、頑張れ!」
「日本に届けたい心の声」 陳礼○
拝啓 桜花爛漫の候、日本の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。東日本大震災が発生してもう一ヶ月経ったこの時、私は考えに考えた末、この手紙を書き始めています。言いたいことは心に満ちているのに、身に付けた限られた日本語で自分の気持ちをはっきり伝えるのは、ちょっと難しいと感じながら…。
先日、私は桜の花見に行きました。満開の桜の下で、大震災についていろいろ考えました。日本は今、全国各地で桜が次々咲き誇っているのでしょう。しかし、3月11日の午後、一万人以上の人の命が、まるでこの桜の花びらのように、舞い落ちてしまいました。
3月11日午後の授業の後で、私は東日本大地震のニュースを知りました。
ショックがあまり強くて、暫く呆然とするだけでした。あの時の気持ちは、三年前、四川大地震が起こった時のようでした。
あの日から、毎日大震災のニュースを見ています。朝日新聞のネットには、増え続ける死亡者や行方不明者の数、そして多くの大津波に流された町の写真が載っていました。
3月11日午後2時46分。この時刻は、永く日本人、さらに全世界の人々に記憶されるでしょう。マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が町を壊し、人々の暮らしを奪いました。それでも、私は知っています。被災地の人々が、今、強い心を持って懸命に歩き始めていることを。
東日本大震災が発生した六日後、私の日本語の先生は、この心の強さを私に感じさせました。私達に、自国の震災の最新情報を伝えてくれた時、先生は悲しくて涙が溢れてきたけれど、我慢して我慢して、授業を続けました。
『地震があっても、津波があっても、生き残った人たちは、辛抱して、涙を拭いて生き続けるしかない』これは、私のお見舞いメールへの先生の返事です。まさにこれは被災地の人々の心の声でしょう。
先週、先生は私たちに『フラガール』という映画を見せてくれました。福島県いわき市常磐炭鉱の町の実話を描いたこの映画の中で、運命を変えるために懸命に踊る少女達の姿には、何度も感動させられました。この映画で、私は日本人の、自分の運命を変える決心と力を強く感じました。
先生は自分を、そして私達を励ますつもりで、この映画を見せてくれたのでしょう。原子力発電所の放射能の悪夢はまだ消えていません。今もなお、福島では、危険を冒して発電所に入る作業員さんを始め、みんなが厳しい現実に立ち向かっています。皆さんは、フラガールのように、自分の運命を変えるため必死に努力しています。
そこに希望があると私は信じています。
2008年、胡錦涛氏は早稲田大学での講演で、
『日本の国民は創造に長けており、勤勉で、英知と向上心に富んでいる』と述べました。
日本の皆さんは限られた国土と資源のもとで、世界の注目を集めるような発展と業績を成し遂げました。今回も、皆さんは全国の力を合わせて、被災地の再建設を迅速に進められると信じています。
機会があったら、私はぜひ東日本へ行きたい。自分の目で日本を見、自分の心で日本の優れた精神を感じてみたい。
私は今、三年生になりました。自分の就職や未来を考えると、いつも悩んで、迷っています。そんなある日、私は朝日新聞のネットで、小学生達の泥だらけの笑顔を見ました。私は恥ずかしくてたまりませんでした。わずかな困難で落ち込んでしまった私は、被災地の小学生に学ぶべきでした。
これからは、私にとっても、日本にとっても、まだ長い道があります。前途には、艱難辛苦が待ち受けているでしょう。しかし、それでも、私たちは微笑みを忘れず生きていきましょう。涙が流れたら、泣いてもいい。また、涙を拭いて生きて行きましょう。運命を変える決心と勇気を持って。
“頑張れ、日本!頑張れ、自分の人生!”
敬具
「日本 頑張れ」 ○旭
2011年3月11日、午後二時四十六分ごろ, 私が授業を受けている最中、隣国—日本の宮城県沖で地震が起こった。震度はマグニチュード9.0、世界の人々をこの上なく驚かせた。この地震は高い津波を引き起こした。宮城県を含めたいくつかの県の沿岸の町や市をのみ込んでしまった。
地震が発生した後、被災地ではパニック状態にならなかった。数百人が広場に集まって地震を避けた時、避難の過程全体を通して、人々は秩序正しく行動した。三時間後、人々は家に帰った。人々が去った広場にゴミは全然なかった。
日本の通信会社AUのある販売店は、店員の安全のために、地震後すぐに店を閉めた。でも店員はこの店の全部のラグ版と充電器を店の入り口ドアのそばに置いた。それによって、通りかかった全ての人が無料で携帯電話を充電することができた。
各メディアの記者たちは安全帽子をかぶって、たとえ恐怖で声がぶるぶる震えたとしても前線で報告し続けた。
全ての人がビルの外へ整然と避難した時、まだ建物の中に居て歩く影もあった。彼らは郵便配達人だった。自分の命に関わらず、公共の仕事に徹する人々がいた。このような職業精神は、多くの人が学校で学んできたものではなかった。自然に、自発的に行動したことだった。
日本の公立学校は地域住民の最もいい避難所だ。地震が起きて以後、人々はすべて自発的に秩序正しく学校に向かった。学校の建物はとても丈夫に作られている。毎学期に学校では全員でアンチ・ショックの演習を行うそうだ。これは大いに死傷者を減らすのに役に立った。
そして、災害は地震と津波だけで終わらなかった。地震と津波のために、福島の原子力発電所が爆発事故を起こし、放射能が漏れだしたのだ。日本だけではなく、世界の環境に悪い影響を与える事態になってしまった。でも、日本の政府と国民は懸命に努力している。50人の労働者は自ら望んでその原子力発電所の修復にあたった。日本と世界の安全のために、決死の覚悟を抱いて原子力発電所に入って行った彼らが、安全に家族のところに帰って来ることを望む。
私は今回の地震で、考えたことがある。人間性は国境によって区別されてはならない。すべての罪がない大衆が平穏無事なことを望みます。私達は平和と安定を心から愛しています。日本、頑張れ!
「大江さんら脱原発呼びかけ、6万人大集会」の見出しが目に飛び込んできた。すごい!もうちょっとで10万人だ!関西でも10月2日に「さよなら原発1000人集会」があるという。1000人と言わず、1万人ぐらい集まらないかなあ。
さて、前置きは終わり。作文、作文。
昨日の王○紅さんも劉思○さんも女子学生だ。今日は、男子学生3人の作文を紹介する。
王本○さんは、尖閣諸島問題の時、「日本語を学び続けるのが苦痛だ。日本が憎い。」と書いていた学生。
陳礼○さんも、「ドイツは反省したのに日本は…。」と昨年冬に書いた子だ。陳さんはその後、私とのメールのやりとりの中で「日本の人たちも戦争で大変な被害に遭われたと、想像もしていなかった。一方的なことを言って大変失礼なことをしました。」と言ってくれた子だ。
最後の○旭さんは、初め、作文が書けないからと言って、クラスメイトのを丸写しし、私に
「3年間も日本語を勉強して、作文の1つも書けないとは!さらに人のを盗作するとは!恥を知りなさい。これでは4年生には進級できません。」
と言わせた子である。その後何とか自分で絞り出したのが、下の文だ。
「日本、頑張れ!」 王本○
西暦2011年3月11日。
これは全ての日本人が覚えるべき日というより、全ての生命を愛する人間が胸に刻みつけるべき日である。不幸に奪われた命のために。
マグニチュード9.0、「千年一遇」と言われる今回の大地震がこの日、日本の東北地方を襲った。この地震は日本の経済及び全世界の経済にも、日本の人々の生活にも、大きなマイナスの影響をもたらした。しかし、これはちっとも構わないとは言えないが、絶対最悪な状況ではない。人さえいれば、ものはまた造れるのである。だが、悲しいことに災害の中で犠牲になった二万余りの人の命は永遠に戻って来ない。
地震の翌日、インターネットで衛星が撮った被災地の写真を見た。それは目も当てられないほどの惨状だ。その画面を頭に浮かべるたびに、心が絞られる気がする。
第二次世界大戦の時のことが原因で、私は小さい頃から日本に対して消そうとしても消せない嫌悪感を抱いている。しかし、最近は日本人に同情する気持ちが心に燃え始めてきた。長年、心に定着したその嫌悪感に抵抗するために、口実を探そうとは思わない。今はただ、同情を感じているのだ。日本の皆さんが困難を乗り越えるように、衷心に祈っている。
日本人は困難を乗り越えられるに違いないと信じている。これは歴史にきちんと検証されているのである。日本は古代から災害頻発の国なのは、全世界の人も知っていることである。現代史の中では1923年の関東大地震や、1995年の阪神大地震などさまざまな巨大自然災害が日本に空前の災難をもたらしたが、いずれも日本を滅亡させられなかった。日本が好きじゃない者にとっては認めたくないとしても、日本民族は古来、災難に育てられてきた強靭な性質を持っている民族だということは事実である。
これを書きながら、私は、去年、私が自分自身の病気に苦しんでいた頃に、日本のあるドラマに励まされたことを思い浮かべている。「1リットルの涙」というドラマである。女主人公は15歳の時に脊髄小脳変性症と診断された。しかし、その女の子はこれで落ち込んでしまわなかった。彼女は悲しみながらも、前向きに命の終点まで精いっぱい生きた。このドラマを見ている時、何度も涙を流した。彼女はどんなに大きな勇気を持っている人だったろう。
このドラマを見たあと、やっと本当に一つのことがわかった。人は生きてさえいれば、希望がある。生きてさえいれば。だから、諦めてはいけません。
朗らかな朝に東の朝日に向かって叫びたい。「日本、頑張れ!」
「日本に届けたい心の声」 陳礼○
拝啓 桜花爛漫の候、日本の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。東日本大震災が発生してもう一ヶ月経ったこの時、私は考えに考えた末、この手紙を書き始めています。言いたいことは心に満ちているのに、身に付けた限られた日本語で自分の気持ちをはっきり伝えるのは、ちょっと難しいと感じながら…。
先日、私は桜の花見に行きました。満開の桜の下で、大震災についていろいろ考えました。日本は今、全国各地で桜が次々咲き誇っているのでしょう。しかし、3月11日の午後、一万人以上の人の命が、まるでこの桜の花びらのように、舞い落ちてしまいました。
3月11日午後の授業の後で、私は東日本大地震のニュースを知りました。
ショックがあまり強くて、暫く呆然とするだけでした。あの時の気持ちは、三年前、四川大地震が起こった時のようでした。
あの日から、毎日大震災のニュースを見ています。朝日新聞のネットには、増え続ける死亡者や行方不明者の数、そして多くの大津波に流された町の写真が載っていました。
3月11日午後2時46分。この時刻は、永く日本人、さらに全世界の人々に記憶されるでしょう。マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が町を壊し、人々の暮らしを奪いました。それでも、私は知っています。被災地の人々が、今、強い心を持って懸命に歩き始めていることを。
東日本大震災が発生した六日後、私の日本語の先生は、この心の強さを私に感じさせました。私達に、自国の震災の最新情報を伝えてくれた時、先生は悲しくて涙が溢れてきたけれど、我慢して我慢して、授業を続けました。
『地震があっても、津波があっても、生き残った人たちは、辛抱して、涙を拭いて生き続けるしかない』これは、私のお見舞いメールへの先生の返事です。まさにこれは被災地の人々の心の声でしょう。
先週、先生は私たちに『フラガール』という映画を見せてくれました。福島県いわき市常磐炭鉱の町の実話を描いたこの映画の中で、運命を変えるために懸命に踊る少女達の姿には、何度も感動させられました。この映画で、私は日本人の、自分の運命を変える決心と力を強く感じました。
先生は自分を、そして私達を励ますつもりで、この映画を見せてくれたのでしょう。原子力発電所の放射能の悪夢はまだ消えていません。今もなお、福島では、危険を冒して発電所に入る作業員さんを始め、みんなが厳しい現実に立ち向かっています。皆さんは、フラガールのように、自分の運命を変えるため必死に努力しています。
そこに希望があると私は信じています。
2008年、胡錦涛氏は早稲田大学での講演で、
『日本の国民は創造に長けており、勤勉で、英知と向上心に富んでいる』と述べました。
日本の皆さんは限られた国土と資源のもとで、世界の注目を集めるような発展と業績を成し遂げました。今回も、皆さんは全国の力を合わせて、被災地の再建設を迅速に進められると信じています。
機会があったら、私はぜひ東日本へ行きたい。自分の目で日本を見、自分の心で日本の優れた精神を感じてみたい。
私は今、三年生になりました。自分の就職や未来を考えると、いつも悩んで、迷っています。そんなある日、私は朝日新聞のネットで、小学生達の泥だらけの笑顔を見ました。私は恥ずかしくてたまりませんでした。わずかな困難で落ち込んでしまった私は、被災地の小学生に学ぶべきでした。
これからは、私にとっても、日本にとっても、まだ長い道があります。前途には、艱難辛苦が待ち受けているでしょう。しかし、それでも、私たちは微笑みを忘れず生きていきましょう。涙が流れたら、泣いてもいい。また、涙を拭いて生きて行きましょう。運命を変える決心と勇気を持って。
“頑張れ、日本!頑張れ、自分の人生!”
敬具
「日本 頑張れ」 ○旭
2011年3月11日、午後二時四十六分ごろ, 私が授業を受けている最中、隣国—日本の宮城県沖で地震が起こった。震度はマグニチュード9.0、世界の人々をこの上なく驚かせた。この地震は高い津波を引き起こした。宮城県を含めたいくつかの県の沿岸の町や市をのみ込んでしまった。
地震が発生した後、被災地ではパニック状態にならなかった。数百人が広場に集まって地震を避けた時、避難の過程全体を通して、人々は秩序正しく行動した。三時間後、人々は家に帰った。人々が去った広場にゴミは全然なかった。
日本の通信会社AUのある販売店は、店員の安全のために、地震後すぐに店を閉めた。でも店員はこの店の全部のラグ版と充電器を店の入り口ドアのそばに置いた。それによって、通りかかった全ての人が無料で携帯電話を充電することができた。
各メディアの記者たちは安全帽子をかぶって、たとえ恐怖で声がぶるぶる震えたとしても前線で報告し続けた。
全ての人がビルの外へ整然と避難した時、まだ建物の中に居て歩く影もあった。彼らは郵便配達人だった。自分の命に関わらず、公共の仕事に徹する人々がいた。このような職業精神は、多くの人が学校で学んできたものではなかった。自然に、自発的に行動したことだった。
日本の公立学校は地域住民の最もいい避難所だ。地震が起きて以後、人々はすべて自発的に秩序正しく学校に向かった。学校の建物はとても丈夫に作られている。毎学期に学校では全員でアンチ・ショックの演習を行うそうだ。これは大いに死傷者を減らすのに役に立った。
そして、災害は地震と津波だけで終わらなかった。地震と津波のために、福島の原子力発電所が爆発事故を起こし、放射能が漏れだしたのだ。日本だけではなく、世界の環境に悪い影響を与える事態になってしまった。でも、日本の政府と国民は懸命に努力している。50人の労働者は自ら望んでその原子力発電所の修復にあたった。日本と世界の安全のために、決死の覚悟を抱いて原子力発電所に入って行った彼らが、安全に家族のところに帰って来ることを望む。
私は今回の地震で、考えたことがある。人間性は国境によって区別されてはならない。すべての罪がない大衆が平穏無事なことを望みます。私達は平和と安定を心から愛しています。日本、頑張れ!