毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

学生の作文「がんばれ日本」③     2011年9月20日   No.196  

2011-09-20 18:39:27 | 中国事情
 中国の大学生がみんな、今回の日本の大災害について同情的であるとは言えない。
しかし、少なくとも、日本語学科の学生達の多くは他学部の学生達に比べて、この事態をより身近に、より真剣に感じていたように思う。
 私は実際に日本人を知っていることが、それを助けていたと確信する。実際に知っている日本人というのは、教室で会う日本人教師だったり、メール交換している日本の友人・知人だったりするだけなのだが、そんな小さい機会でも、人と人を結ぶきっかけになる。そのためにも、もっと日中の人々が知り合い、交流することが大切だと切に思う。



             「日本、頑張れ」   趙智○
日本のみんなは「唐山大地震―想い続けた32年―」の映画を見たことがあるだろうか?私はその唐山出身だから、小さい時から、時々「地震」という言葉を聞いて育った。でも、家は震源から遠かったので、1976年の唐山大地震の時、揺れの感じはたいして強くなかったそうだ。母はただ他の人から地震のことを聞いた。それで、小さいとき、私は「地震は怖い」「地震でたくさんの人が死んだ」しか知らなかった。唐山の子供なのに。

2008年5月12日、四川汶川大地震が起こった。その時、高校生の私はテレビで汶川のことを見て、初めて(地震とはこのようなことか。人々は自然の前ではこんなに小さいのか)とびっくりした。ビルや家が倒れ、建物の下に生き埋められて、たくさんの命が消えた。賑やかで活気溢れる町はあっという間に廃墟になってしまった。地震のせいで外部との連絡が断ち切られ、そこに住んでいる人々の安否を知りたくてもその方法がない。余震がたびたび発生し、救助隊員がそこに行くことも危険だ。そうしたことを見聞きすると、本当に胸が痛くなり、何とかしてあげたいという思いに駆られた。

実際、困難があるところには、四方八方から応援が駆けつけた。全中国、全世界の優しい人々が汶川を支えた。特に唐山からは、1億元を募金した企業がいくつかあって、唐山生産のシャベルや、つるはしなどを汶川に贈った。それでもさらに人々は、実際自分が汶川に行って、なんとか助けてやりたくてたまらないのだ。
「どうして?」と聞いたら、
「その被害の痛みが分かるから。それに唐山大地震の時、助けてくれた。」と答えた。
  今度の日本の大地震でも、私たち中国人は、その痛みを感じる。テレビ、インターネットでその地震と津波の画面を見て、みんなが日本にいる人のことを祈っている。

  2010年の夏休み、「唐山大地震―想い続けた32年―」という映画が中国で公開上映された。見たとき、私は涙が出てたまらなかった。ただ23秒の災害なのに、人々の想いは32年間も続くとは。「余震」というのは「より弱い地震」というだけの意味じゃなくて、人々の心理に及ぼす影響だ。唐山大地震が人々に与えた災害は、物質的と精神的の二種類があって、特に、地震災害は人々の心の世界に癒しがたい傷を残してしまう。唐山では、今でも唐山大地震の話をすると、地元の人々の顔色が変わる。
  でも、中国人にひきかえ、日本人は地震に際して驚くほど沈着冷静だ。日本の人々にとって、地震はどういうものなのだろうか。

日本は、地震に厳しい試練を何度も課されることを、避けがたい生活の現実として常に受け入れてきた国家だ。日本では地震が日常茶飯事だ。そのため、地震の試練は普通に生活の一部になっている。人々は、いつ災害が襲ってくるかわからないと、常に意識しながら暮らしている。
略奪も暴動もないという事実に関しては、すでにたくさんの報道がされている。商品が切れているにもかかわらず、スーパーやコンビニ、ガソリンスタンドできちんと列をつくり、押したり喧嘩をしたりすることなく並んでいる人々の態度は世界中の人々を驚かせた。
でも、家族が亡くなった時、人々はつらいに間違いない。子どもたちが不安になるのは当然だ。たった今まで慣れ親しんで暮らしていたところが、自分の目の前で廃墟になった時、心はどんなに痛むことか。その傷が治るまでとても時間がかかるだろう。

国内だけではなく、世界各国から支援表明やお見舞い、激励のメッセージが相次いだ。可能な限りの協力を行うとし、日本政府の受け入れ表明を待って、救助隊員を被災地に派遣した。国を超えた世界の人々の連帯の気持ちだ。
日本はこれから徐々に震災後の復興をして行くと思うが、また震災前のような日々に戻れることを心から祈っている。
困難に対して日本のみんなが示した沈着冷静さと団結心は、大災難より強い。風雨の後は虹が出るよ。立ち上がれ日本人!頑張れ日本!





      「頑張れ日本」
    ― 千年不遇の大地震と戦う日本人へ ―
                                  王栄○

「病は人間の免疫力を一層鍛えるためのものだ」と偉人が言った。3月11日の東日本大地震に遭った日本の状況を「病」に例え、災害からの復興を促す力は何かについて考察したい。以下はこの「病」に対する「病症録」作成の試みである。

 症状:
  ①3月9日11時45分(本震の約51時間前)に、本震震源の数十km  
   ほど近いところに7.2マグニチュードの地震が起きる。
  
  ②3月11日14時46分18秒(日本時間)マグニチュード9.0の東北地方  
   太平洋沖地震が発生。
  
  ③この地震により、場所によっては波高10メートル以上、最大遡上高38.9  
   mにのぼる大津波が発生。東北地方の太平沿岸部に巨大な被害をもたらす。

 結果:
  ①死傷者多数、建築物が多く倒壊し、交通機関が途絶。
  
  ②福島第一原子力発電所では、地震と津波の影響を受け、全電源を喪失し、 
   原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質が放出、周辺一帯の住民  
   は長期の避難を余儀なくされる。

人々の反応及び分析:
  ①信念~生きていく原動力
 「これで死んでしまうかと思ったとき、家族のことが頭に浮かび、その瞬間 
 生きていこうと決心した。」生き残った石川太郎はこう話した。
「声を聞いて安心した。前向きにいくんだぞ。パパも頑張ってやるから。」 
 娘の安全を知った父は、電話の向こうの娘を励ました。
「神様お願い。何としても生きなければなりません。助けてください。」  
 地震のとき、あるお母さんは子供を胸に抱えて生きていく信念も抱えた。

  ②秩序~災害と戦う最も強い道具
    地震が発生した後、路上には多くの走行車があったが、みんな秩序よく、 
    交通規則を守って走っていた。避難所になった広場では、皆自覚的にエスカ  
    レーターの両側に座り、他人に道を譲る。ある報告によると、数百人が避難  
    した後の広場には、地面に紙屑やごみなどは一つも見当たらなかった。

  ③責任~勇敢な者が持つ美しさ
    福島第一原子力発電所では50名の職員が自発的に自らを犠牲して、自分 
    の職場をしっかりと守った。
    「今の対応次第で原発の未来が変わる。使命感を持っていく。」
    と福島フィフティーズの一人が娘に自らの責任感を表した。
    「俺は怖くない、これは俺の責任だ。」英雄たちはみんなのために、この負  
    けられない戦争と戦っている。

  ④互いの思いやり~家が無くなっても、家族には愛がある
     避難所にある老夫婦がいた。彼らの朝御飯は一つのチョコレートパン。そ 
     れが三つに分けられ、
     「わたし、今のところお腹空いてないから、大丈夫。」
      とお婆さんが先にお爺さんに分けたうちの一つを渡した。
      愛ある人々はこの物質不足の状況にいても、先に相手を思いやる。

  ⑤人間性~国境なく、皆が兄弟だ
 「彼がいなかったら、私たち20人はきっと死んでしまっていた。」
 と救われた女子研修生が泣きながら話した。地震が発生するとき寮にいた20 
 名の中国人研修生は外に出て、廃墟の前で迷っていたころ、会社の専務佐藤充 
 が来て、 
 「早く、神社までついてきて!」
 「神社は高いところにあるから安全です。」 
 と言いながら、研修生たちを神社に誘導した。残った人がいないかと確認する 
 ために佐藤さんは再び寮に戻った。佐藤さんはそのあと二度と帰って来なかっ 
 た。災害を前にして、彼は身近にいる中国人を「外国人」として見ずに、本能 
 と言っていいほどの気持ちで助けた。これは兄弟愛・人間愛でなければ何だろ 
 う。

見解:
  親友に死なれ、家を無くし、人々の心は傷ついた。自然災害を前にすると、 
 人類は小さい存在だが、自然と対峙し闘う精神や信念は決して小さくない。
      震災と闘う日本人たちの姿は世界に、
 「日本はきっとこの大病から抜け出し,立ち直る。」 
 と伝えている。
  だから、みんな、一人一人の冷静さと勇気と愛、そして国境を越えた人間同 
 士の連帯感を堅持して、一緒に明るい未来へ頑張ろう!
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