夜7時、大阪の家に着きました。
読谷村にはあちこちに歴史的遺跡があり、
スタンディングやポスティングの合間に連れて行っていただいたり、
解説していただいたりして感謝感激でした。
下は連れて行っていただいた読谷山喜名番所です。
なんと、あの黒船のペリー提督がここに立ち寄ったんですと。
(後姿は案内してくださったJさん)
江戸時代末期の1853年(今から166年前)のこと、
アメリカのペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に入港する1月半ぐらい前に
那覇港に寄港しました。
そのとき、ペリーは12名の探検隊を編成し、首里城から西原、中城方面に向けて北上し、
読谷山の喜名番所(写真)で休憩したそうです。
下の記録では
住民が自主的に食べ物を持ってきてくれたふうに書かれていますが、
当然「食べ物を持って来い!」と要求したはずです。
「・・・住民が鶏二羽と卵や胡瓜をたくさん持ってきてくれた。
我々は腹が減って疲れていたので非常においしく、十分に食べた。
我々は4時半に再び出発した。」(ベイヤード・テイラー記;読谷村喜名パンフレットより)
しかし、なぜペリーは浦賀に行く前に沖縄「探検」をしたのでしょう。
それについて興味深い記事を見つけました。
ーーむか~し話「ペリーの旗立岩」ーー
・ペリーが琉球に上陸したのは、石炭、食料、水などを確保するためで、探検隊と称したのは、船の燃料である石炭の確保のための地質調査が目的だった。石炭の鉱脈は見つからなかったが、一部の部隊を那覇に残し、浦賀で交渉に当たる艦隊の戦略上のバックアップ拠点にした。この作戦は、100年後、ベトナム戦争のときにも沖縄が担わされた役割に共通する。
・一部の兵士達は粗暴で、略奪、強盗事件を起こす。地質調査の探検隊の水兵が、恩納村の番所に押し入り、酒を要求した。酒がないと分かると、人家に侵入して酒を要求したが、誰も与えなかったので、通行人に発砲するという傷害事件を起こした。三人がケガを負った。
・そして、起こるべきして、水兵による女性暴行事件が起きた。民家に上がりこんで酒を強要して泥酔し、女性に乱暴した。騒ぎを聞きつけた住民は、逃げる水兵を追い詰めたところ、海に落ちて溺死してしまう。ペリーは被害者に謝罪どころか、水兵を殺害した住民を裁判にかけ、八重山への終身流刑を言い渡した。ただし、琉大の先生の話では、琉球王府は、ペリーには流刑にしたと言っただけで、実際には行わなかったそうだ。
ペリー来航によりもたらされた一連の事件は、琉球の人々の平和な生活を脅かした異常な事態であった。これらの事件は、歴史の表舞台には登場しない。
神戸女学院大学教授の真栄平房昭氏の「沖縄からの声(4)ペリー艦隊の沖縄来航」、沖縄大学講師の仲村清司氏「沖縄県謎解き散歩」などを参考に作成。
http://okinawa.syarasoujyu.com/okinawa5/peri.html
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なんてこったい、
昔も今も米軍が沖縄でやっていることはほぼ同じ……