毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「金平茂紀さんの記事見っけ!」2015年4月24日(金)No.1343

2015-04-24 21:44:36 | 報道

最近、毎日新聞の見出しと記事内容に冴えが見られる。

今日も今日とて下のような記事を見つけて、私はたいへん嬉しかった。

金平茂紀さんの名前はテレビも見ないのに何故か知っていたが、

記事を読んだのはおそらく初めてだ。

彼の経歴は、

1977年、TBS入社。社会部、「ニュースコープ」副編集長、

モスクワ支局長、ワシントン支局長、ニュース23編集長を務め、

2005年から報道局長、2008年からアメリカ総局長として

アメリカを中心に取材を続ける。

2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

 とある。

なるほど、この記事はモスクワ支局長時代のエピソードなのか。

『かつての強大な政権与党=ソビエト共産党は、

 気に入らない放送を流すような事態が起これば、

 容赦なくその関係者らを呼びつけ処分した。』の部分、

ソビエト共産党自由民主党に変えれば、全く今の日本の状況だ。

はやく、「かつての強大な政権与党」と言えるような日が来ますように。

お天道様に手を合わせて祈る日々です。

 

―――2015年04月24日 東京夕刊―――

週刊テレビ評:テレビに政権があられもなく介入した国の末

 「バック・イン・ザ・USSR!」=金平茂紀    

かつて僕がソ連末期のモスクワで勤務していた時代の話を書こう。

今から四半世紀近くも前のことである。

その当時の国営テレビ、ゴステレの夜の定時ニュースは「ブレーミャ」という名前で、

その御用報道ぶりでよく知られていた。

そんななかで、ゴルバチョフ大統領の登場と共に

「グラスノスチ」=情報公開の波が徐々にではあるが、

かのソ連においても広がりつつあるかにみえた時期があった。

けれども、ゴステレにおいては、

「言論の自由」を掲げて果敢に報道する姿勢をみせた記者、キャスターらには

直ちに容赦のない弾圧が加えられていた。

「ブレーミャ」は生放送ではなく数秒遅れの疑似生放送の形式がとられていたが、

それは政府に不都合なことをチェックする(=カットする)ためだと言われていた。

1991年8月19日、

ゴルバチョフが保守派の企てたクーデターで身柄を拘束された際に、

「ブレーミャ」では、アナウンサーが重々しい口調で、

ゴルバチョフ大統領が病気になったため、

ヤナーエフ副大統領が大統領の職務を代行すると報じた。

国民にうそをついていたのである。

ところが、この保守派クーデターに反対するエリツィン・ロシア大統領に呼応して

市民が蜂起し、クーデターが挫折し、

ついにはソ連が崩壊するに至る事態が起きるや、

ゴステレでは大変なことがおきた。

それまで政権の言う通りの放送を流していたクラフチェンコ・ゴステレ会長が

エリツィンによって解任された。

それを聞いた市民らの間から歓声がわき起こった。

ラフチェンコ会長はその後、ゴステレの放送に登場し、

公開の場でその責任を追及されていた。

僕はそれらの番組をリアルタイムでみていた。

御用放送人の末路は必ずこのようになると確信した。

かつての強大な政権与党=ソビエト共産党は、

気に入らない放送を流すような事態が起これば、

容赦なくその関係者らを呼びつけ処分した。

 

さて、僕らの国にも放送法があって、報道の自由、言論の自由が守られている(はずだ)。

それらの法律は、戦前・戦中の暗黒時代の反省の上に、

究極的には国民の知る権利を守るために作られた法律だ

その放送法を盾に、政権党が個別番組の内容に絡んで

テレビ局幹部を呼びつけ「事情聴取」した。

僕は、ああ僕らの国はあのソ連時代に向かっているのかと思った

来日中のポール・マッカートニーなら

「バック・イン・ザ・USSR!」と皮肉まじりにシャウトするだろう。

でも、笑えないな。

連は滅びた。(テレビ報道記者)

―――http://mainichi.jp/shimen/news/20150424dde018070046000c.html

 

 

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