夜7時10分、初めての天津に着きました。
河南省鄭州空港を午後5時35分に出たので1時間半の空の旅、
寝て起きたらもう着いたという感じです。
「天津は狗不理包子が有名ですよ。必ず食べてください」
と教え子の余立君さんから言われていましたが、
ホテルに直行したので包子(肉まん)にはまだお目にかかっていません。
明日のお楽しみです。(写真は全部ネットから)
天津濱海空港は歴史が古く1950年8月にオープンしたそうです。
国内線に着いたせいか、人もそう込んでいなく、
静かで落ち着いた空港だという印象でした。
空港職員1人、ホテルの従業員2人と
言葉を交わしただけですが、淡々として出過ぎず、引き過ぎず、
自然体の応対でした。
(空港に近いホテルだから嫌がるだろうな)と思ったタクシーの運転手は、
これまた淡々と、親切でも不親切でもないレベルで、15分乗って34元でした。
鄭州のタクシーは料金表示を客の目から隠したりしましたが
ここではそれもありませんでした。
ということで、私の天津初印象はなかなかいい感じです。
実は、天津は私の両親が1946年2月に山東省から日本に引揚げる時、
この天津の港から出港して博多に向かったところなのです。
70年前の両親の行程を飛行機ではあるものの、ほんのちょっぴり辿り、
生前(また中国に行きたいなあ)と言っていた母を想います。
戦争に駆り出され、兵士として為したことも、引揚げの経験も
一切話さなかった父、
逆に些細な事実を私によく話してくれた母、
新婚生活の4年間が侵略した先の中国だった二人の生活を
もっと根掘り葉掘り聞いておくのでした。
後悔してももう取り返せません。
文と写真が全く噛み合っていませんが、
せっかくですので御紹介しますね~。
確か天津にも父は支店を出していたと聞いていましたが・・・・・
包子、懐かしい!よく食べました。
道中お気をつけてお帰りください。
満州と山東省では引揚げの困難度にかなり差がありましたね。引揚げ人数の多さも関係あるのかもしれませんが、満州における「死の彷徨」と言われる避難行程が山東省であったとは聞きません。母が言うには蒋介石が汽車の外壁に「日本人を殺傷したら厳罰に処す」と書いてくれたからだと。母は蒋介石にはいつまでも感謝していました。思えば岡村大尉と国民党軍との間の密約で日本軍の一部を対共産軍(「八路軍」と母は憎憎しげに言っていました)との戦いのため国民党軍に入れさせ、換わりにまず軍隊が、そのあとで民間人も済南の駅まで徒歩ではなく馬車に乗って、それから天津までは汽車で行けたそうです。地元の人たちは父母にお餞別までくれて「平和になったらまた来いよ~」と送ってくれたと、母は死ぬ直前まで何度も話していました。私が中国行きを決めたのも、父母に代わって恩返しする意味もあります。そのわりに学生を叱咤激励してばかりですけど(笑)。
お父様が中学校時代青島にいらっしゃったということは第一次世界大戦後ですか。今年は1919年の五四運動から百年目ですが、この運動のきっかけは青島からだったと学生の閻小玲さん(一年のとき私に青島の街を案内してくれた人)が教えてくれました。また、そのメールもブログで紹介しますね。