故郷、北海道斜里に住む兄が、最近懐かしい知床の山や海の写真を送ってくれました。
中国で私は「日本から来ました。北海道人です。」と自己紹介していたのです。
両親が亡くなってから故郷に帰る機会がありませんが、
今も私は日本人というより北海道人として自負心を持ち続けています。
北海道に生まれることができたのは本当にラッキーでした。
なぜならば、圧倒的な自然に全身すっぽり包まれていたからです。
↑海別岳(うなべつ岳)は知床連山南端の小さい山です(標高1,419m)。
私が生まれたのは斜里郡山奥の引揚者のための緊急措置的な開拓村でしたが、
小学生のとき、平野部の親の実家付近に引越しました。
家から地元の小学校まで30分ほど歩いて通っていたのですが、
学校が終わると左手にこの海別岳、真正面に斜里岳を見ながら帰ったものです。
今思えば、何と贅沢なことでしょう。学校なんか行っている場合じゃなかったかも。
下の写真見覚えがあります。この道路の一つ左側の道を通っていたように思います。
↓斜里岳(標高1,547m):これは兄の写真ではなく、ネットinfo.trek-shiretoko.comから借りました。
この斜里地域(シャリ=アイヌ語で「葦の茂るところ」)には
元来斜里アイヌの部族が暮らしていたそうですが、
第二次世界大戦後に生まれた私が成長する頃にはほぼ絶滅状態でした。
江戸幕府がクナシリ、エトロフなどの北方領土をロシアに取られる前に「開発」したときに
斜里アイヌを連行し、男たちは強制労働で死ぬまで働かせ、女たちは和人の男たちの慰みものにして
妊娠したら子供を殺した、と故チカップ美恵子さんからお聞きしたことがあります。
和人は明治以降も北海道「開拓」という名の侵略をし続けたと。
旭川支庁がある場所はアイヌから百年借りるという約束だったのに、百年過ぎても返しもしないと。
戦後も学問の名のもとにアイヌ人の墓を暴き、アイヌ文様の手作り上着を無断で持ち去り、
アイヌ人の肖像権を無視して勝手に自分の顔を写真に撮り、専門誌に掲載したと。
私は(ああ、またここでも)と、秀吉の朝鮮「征伐」や、琉球王国に対する琉球「処分」とともに、
日本には、帝国主義の時代以前から他民族を人間と思わぬ領土拡張を目論む
アグレッシブな政権が存在していたこと、
戦後民主主義の時代にもアイヌを人と思わぬ思想が蔓延っていることを恥ずかしく思いました。
話は飛びますが、タイ人の知人が
「タイはどの国にも従属したことがない。ずっと独立を貫いている」
と胸を張って言ったことがあります。
日本もそれでいいのに。
他国に攻め込んでその国を分捕ろうとかせず、
自国の独立をきちんと保持できたら、それで十分なのに。
日本は今「攻撃は最大の防御なり」と嘯いて敵基地戦闘能力(長距離ミサイル)を保有し、
一方、アメリカには何でもかんでも即座に言うことを聞き、地獄の果てまでも付き従うという
どちらもとんでもパターンに突き進んでいます。
そういう政治勢力を衰退させないと、と思うのですが事態は悪い方へ転がり落ちていますね…。
さて(笑)、
アイヌ語で海別岳はウナペツ(灰川)、噴火で山全体が灰に覆われたことに由来しているとのこと、
斜里岳はオンネヌプリ(老いた山、大きい山とも)と呼ばれて尊敬の対象だったようです。
私は小学生の時、きりっとして秀麗な姿の斜里岳が大好きでした。
海別岳が急に目に飛び込んできたのは高校生の頃、バスの中から見えた雪の海別岳の
夕日に照らされた色彩が余りにも美しかったためです。
こんな二つの山に見下ろされて、ちっぽけな女の子はとてつもなく呑気に育ったのでした。
今思えば、奇跡のようにありがたいです。
⤵下は兄が送ってくれたものです。
ジャガイモの収穫が済んだ畑、海別岳、高い空のそれぞれの色は私が子供だった頃と一緒です。
⤵オホーツク海。小学校の春の遠足でここに来た時、潮風に晒されて手や顔が腫れました(笑)。
向こうに知床連山が見えます。
⤵知床連山と手前の斜里漁港。高校の美術の時間に写生に出かけました。
高校の先生方は個性的な方々が多く、今も心に深く刻まれています。
世界史の授業で、
フセイン=マクマホン協定、バルフォア宣言、サイクス=ピコ協定も教わりました。
先生、お元気ですか。
あの授業、人生のいろんなときに思い出して生きてきました。
開拓村とありますが、ご両親は引き揚げてこられたんですか?そんな背景があって中国におられたのでしょうか。
中国はお隣の国、仲良くしてもらいたいものです。
40数年振りに訪れた母や父の故郷は、田んぼが宅地になり 門前の店々も消えてしまいました。国道には飲食の大型チェーン店が・・
でも 門前町のお祭りが復活した話を聞き 来年は唯一残っている旅館に泊まり その盛大なお祭りをみたいと思っています(*^_^*)
コウリャン畑は張芸謀監督の映画「紅いコーリャン」で鮮烈に脳に刻まれました。いかにも中国的な風景でしたが、北海道の景色にも重なりました。北海道人は中国東北人と似た精神風土を持つのかも知れません。北海道は飛行機で行けばすぐです。ぜひ気候のいい夏にでもお出かけください。札幌や小樽などの都会から少し車を走らせれば、新京近辺と同じ風景に遭遇するかもしれませんよ。
はい、両親は引揚者でした。山東省で現地除隊した父が日本軍の下請け石炭会社に就職し、母は北海道知床から山東省に嫁いで行ったんです。
生前、父から当時の話を聞くことはほとんどありませんでしたが、母がその分さんざん話してくれました。亡くなる2週間前まで「中国の人にはお返しをしないと。日本に帰ってくるとき餞別をもらったんだ。おやつも。平和になったらまた来いよ、と言って送ってくれたよ」と話していました。私が中国で日本語教師をするようになったきっかけは直接両親とは関わりないのですが、後で思えば両親にとってもよかったなと思います。
その町ならではの表情が、コンビニや大型量販店の進出で全国どこでも金太郎飴みたいにおんなじになっていく過程を経て、今一度その町独自の特徴を再生していく……。日本社会が進化?深化?してきた証でしょうか。その門前町のお祭りのある町、どこですか。