1945年3月26日のアメリカ軍座間味島上陸に始まった沖縄戦、
自分でブログに記事を書いたことで、私はそれから事あるごとに、
(ああ、沖縄戦はまだ続いている)と思い、
逃げ惑う人々の姿が頭に浮かぶようになりました。
「今日、渡嘉敷島で集団自決」No.1904
「沖縄戦をたどる~渡嘉敷島の集団自決2」No.1905
今日は日本軍が敗退し、組織的戦闘が終わったとされる日で、
沖縄では「慰霊の日」として毎年、沖縄全戦没者追悼式が開催されます。
その後戦争が終わったからと言って平和が訪れたわけではなく、
収容所から戻った住民たちを待っていたのは、
2017年の今まで続くことになるアメリカ軍基地問題でした。
そのことを思うと胸が詰まり、
言葉が出なくなりますが、
今日は沖縄戦そのものについての記事、
特に、先日亡くなった元沖縄県知事の大田昌秀さんの言葉が書かれたものを
探して読みました。
日々の生活に追われて、心に留めなければならないことを
スウッと流してしまうことが多々ある私ですが、
このブログに残すことで、
時おり振り返ってみられることがあります。
以下の記事もその意味で保存したいと思います。
大田昌秀さん、亡くなって残念でたまりませんが
「沖縄健児隊の最後」(藤原書店)
日本に戻ったら必ず買って読みます。
「生きて生きて、生き抜いて」沖縄戦を生き延びた少年を救った、ある言葉とは
元沖縄県知事の大田昌秀さんが、戦場で見たもの。そして聞いた言葉たち。
1945年、沖縄。日本国内で唯一、米軍が上陸して地上戦となったこの場所で、激しい戦いを生き抜いた一人の少年がいた。
そんな激しい戦闘に巻き込まれたのは、兵士だけではなかった。多くの学生たちも駆り出され、そして、亡くなった。
まだ10代だった少年は、多くの遺体が積み重なる戦場で自らに問いかけた。「戦争とは、何なのか」と。
日米で合わせて計20万人以上の命が奪われた、沖縄戦。日本側の死者の半数は民間人で、当時の沖縄県民の4人に1人とも言われている。
自らも動員された経験を持つ、元沖縄県知事の大田昌秀さんは、「絶対に二度とあんなおぞましい戦争をやらせてはいけない」と著書に記している。
1925年生まれ。戦争末期の1945年、沖縄師範学校の2年生だったころ、「鉄血勤皇隊員」として戦闘に動員された。
大田さんは過酷な戦場を「奇しくも」生き抜きながら、たくさんの友人を失った。
自身や友人たちの体験をまとめた「沖縄健児隊の最後」(藤原書店)は2016年に刊行された。1953年に出版された「沖縄健児隊」をベースにした内容だ。
そもそも、なぜ軍の補助要員として10代の学生たちが動員されたのか。大田さんは「はじめに」で、その経緯をこう振り返っている。
沖縄戦の実相といえば、すぐに思い出すのは、沖縄住民の犠牲の大きさと沖縄の十代の若人たちの犠牲の大きさであります。
当時の沖縄には計22の中等学校と女学校があり、「そのすべての学校の十代の生徒たちが、戦場に駆り出された」という。
十代の若人たちを戦場に出すには、先ず国会で法案を策定し、それに基づいて出すのですが、沖縄の十代の男女生徒たちは、その法的根拠もないまま超法規的に戦場に駆り出されたのです。
それまで戦闘の訓練もろくにしていなかったような若者たちだ。超法規的に、そして否応なく戦場に駆り出された若者たちの「過半数」が亡くなった。
男子生徒たちは、1787人以上が軍に動員され、921人以上が戦死。女子生徒が735人中、296人が犠牲になっています。
本には、「自分はどうして戦争から生き延びることができたのか」と題する体験談も載っている。
艦砲射撃を縫って伝令を果たそうとしていたことや、兵士や民間人の遺体を目撃したこと。そして、空腹に倒れながら生き延びたこと。過酷な戦場体験が、淡々と、それでいて生々しく綴られている。
体験談には、「戦争とは何か」と改めて考えさせられる、さまざまな言葉が残されている。
たとえば、まだ戦闘が激しくなかったころ。大田さんは、海軍に動員され、多くが戦死した「ひめゆり学徒隊」の女子生徒に、司令部のあった洞窟でこんな言葉を投げかけられたという。
わたしたったひとこと、言いたいことがあります。男子部の生徒さんたちは、いつも死ぬことだけが最上だと口にしています。死ぬことによって初めて国に報いることができるということだけが頭にあるように思います。
死んでしまったらもうおしまいではありませんか。ね、決して早まった死に方はしないで、生きてください。生きて生きて生き抜いてこそ、何事も叶うし、より長く国のために御奉公もできるのです。ですから必ず生き抜いてくださいね。
当時は、「私には、『生きる』という言葉は、まるで別世界のこと」とも感じたという大田さんはその後、「生」を渇望し、生き延びることができた。この彼女の言葉に、支えられたこともあったという。
しかし、同郷だったこの女子生徒と再び出会うことは、叶わなかった。
最高司令部だった大本営から派遣された航空参謀の少佐から、こんな声をかけられ、困惑したこともあったと記している。
たとい沖縄におる者が全員玉砕しても、日本は絶対に参ることはない。すでに本土決戦に備えて万全の用意もしてある。沖縄でのこれくらいの犠牲は、日本にとって何でもない。
沖縄は、日本本土の捨て石となれ。そうとも取れる、言葉だ。大田さんはこう続けている。
一瞬、悲壮な気持ちで、この言葉を聞き止めたのをつい昨日のことのように覚えています。その言葉は、後に続く沖縄戦の悲劇を予言するものでした。後になってその発言の重大さを思い知らされたのです。
戦闘が終盤に近づくに連れて、戦闘の激しさは増し、それとともに、日本側の死傷者は増えていった。
大田さんは、生きようとした。ひめゆり学徒隊の女子生徒の「死んではいけません」という言葉が、「強い情感を伴って、私の胸倉を捉えて」離さなかったからだ。
命からがら海岸に逃れ、そこで、日本兵の遺体が大量に打ち上げられた様子を目撃した。当時感じたことを、こう振り返っている。
戦争に勝つとは、何を意味するのだろうか。勝利を勝ち取る過程で山積せしめられる多大の犠牲を以て得られるものは何なのか。無数の死体の上に築かれる人間の幸福というものがありうるのだろうか。
あるとすれば、それはなん人の、そしていかなる種類のものなのか。眼前の海岸に巨大な風船さながらに水膨れした死体によって護持される国体とは、一体何だろうか。
こうした自らの体験を元に、戦後70余年、平和運動に取り組み、そして基地問題を訴え続けた大田さん。この6月12日、呼吸不全と肺炎のため、92歳で亡くなった。
その1年ほど前、2016年5月に書かれた「あとがき」には、こんな切なる想いが込められている。
私たち十代で戦場に駆り出された者にとって、今だかつて一日たりともあのおぞましい戦争体験を忘れることはできません。
私たちは、日本の若い世代が私たちと同じ間違いを繰り返してはいけないと心底から切実に願って止まないのです。
大田さんはこうも記している。「私たち大人の世代がいかにして戦争に巻き込まれたかを、若い世代の人たちに是非とも知って」もらいたい、と。
2017年6月23日、沖縄は戦後72年目の「慰霊の日」を迎えた。
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/okinawa-1945?utm_term=.mrpO2BgYb#.pizBNPQRa
本当に 慰霊の日を知らなかったら これほどの惨劇があったことも 日常の中に 埋没 してしま うところでした 改めて いつも 情報をありがとうございます
昔、沖縄の知人の家に家族で遊びに行き、そこでガマ(壕)に案内され、ひめゆり部隊の方のお話を聞く機会があって初めて、身近に沖縄戦を感じました。家族旅行のついででした(-_-;)
その偶然がなければ、沖縄に繋がろうとする気持ちが今まで持続しただろうかと、甚だ疑問に思います。きっかけは何でも、とにかく知ることが大事ですね……。