毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「これから毎日資料室ぐらし」    2012年3月13日(火) No.308

2012-03-13 08:11:19 | 中国事情
 3・11は終わった。
私も気持ちにふんぎりをつけなきゃ…。日本語で言うと「さて」、という場面だな。

さて、昨日から私と学生達は放課後、資料室でマンツーマン特訓を始めた。
何をしているかというと、清明節明けの4月6日に行う、校内スピーチコンテストに向けて
一人一人のスピーチ内容、時間、発音・アクセント、抑揚、表情、仕草などを
チェックし、練り上げていくのだ。
学生にとって日本語の実力をつけるまたとない機会であることは間違いない。

このコンテスト(中国風にいうと「試合」)は、この日本語学科が始まって以来のこと。
私の発案だから。
最優秀賞1名は日本一週間招待(今回は関西)。
ありがたいことに、
「一週間ぐらいなら引き受けましょ。」
と申し出て下さった方がいて、実現の運びとなった。
こうしたことしか私にはできない。
言い換えれば、こうしたことぐらいならできる。
「一人分のできること」の中にある。

以前、このブログで資料室についてさんざん文句を書いた。
黴だらけの椅子、机の写真も掲載した。
言い続けるモノだ。
一昨日、ついに資料室にまともなエアコンがつけられた。
これで、学生と震えながら練習しなくてもよくなった。
さらに、ナント!
インターネット接続ができるパソコンまで設置されたではありませんか!
これは望外の喜びだ。何しろ宿舎の私が持ってきたノートパソコンは風前のともしび、
「我的電脳壊了。」と言うのも時間の問題だ。

やってくれたのはこの学院(外国語学部)の院長だ。
私は気遣いのヒトなので(エエッ!という声上げたの誰?!)、
帰国の度に、学院の誰彼に小さいお土産を持参する。
しかし、上の者には渡さなかった。
賄賂と勘違いされたら嫌なので。
しかし、昨冬、院長がなぜかスカーフをくれたので(借りは返さなきゃ)と
今回は彼にも500円のチョコレート一箱を土産に持ってきた。

この機会を日本語学科の主任、小紅老師は見逃さなかった。
彼女は、私を院長に引き合わすと言って、
(それまで一度も面識なし。会いたくないもんね~。)
彼女へのお土産までプラスし、ご挨拶に伺った。
私は断ったのだが、一度は会うべきだと、小紅さんが主張するので仕方なかった。

で、挨拶ついでに私は、
資料室がかび臭い、雨期には床が濡れて滑ってころぶ、寒くて震えながら暮らしている、
パソコンはゴミ同様の触りたくないのが床に転がっている等々、
どんだけ言うんだというほどまくし立てた。
小紅先生も、待ってましたとばかりにそれを通訳した。

これが中国式の交渉かも知れない。
小紅老師の老獪さにくるくる(舌を巻く音)。
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「南昌の片隅から-忘れない、東北を-」  2012年3月11日(日) No.307

2012-03-11 21:43:31 | 中国事情
 江西財経大学日本語学科の2年生主催「東日本大震災追悼の夕べ」は
夕方6時半から7時半すぎまで、麦路キャンパスの教室を借りて行った。
60人ほどの参加者。今学校にいる日本語学科の学生は100人に満たない。
それを思うと、授業でも何でもない、日曜の夕方に
ずいぶんたくさんの学生が参加してくれた、と思う。



4年生の黄さんは萍郷(ピンシャン)の農村出身。
「第七回中国人の日本語作文コンクール」で3位に入り、作文が本になった子だ。
彼女は外交官になって中日関係を改善するために尽くすと、ここで宣言した。
大風呂敷と思うかも知れないが、彼女は本気だ。
そのために北京外交学院の大学院を受け、この間合格したばかり。
「一所懸命」という言葉は、彼女たちの行いを表現するのに相応しい。

↓2年生がたどたどしいながら、
 日本語と中国語で1年前当時の新華社ニュースを朗読。
 女川町の佐藤充さんの犠牲が、今も忘れられない中国の若者達。


「亡くなった犠牲者よ、安らかに。生き延びた人、苦しかったでしょう。
でも、輝く明日がきっと来る。負けないで。
中国の南昌で、私たちは、今も被災者の心を一緒に感じています。」
という言葉のあとに黙祷をした。


↓ 私のスコップ団の話のとき、意外にたくさん参加した1年生のために
ボランティア通訳をお願いしたら、4年生の範さんがサッと手を挙げて、
流ちょうに通訳してくれた。
参加者が日本の東北を思うことで、心を合わせたひとときだった。

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「繰り返し使おう!」    2012年3月10日(土) No.306

2012-03-10 21:16:35 | 中国事情
 今ごろ、仙台の泉ガ岳では、20000発の花火をバンバンあげて天国に連絡しているんだろうな。
私は明日の会の司会、雷国華さんと数回、メールでやり取り。
何をか。彼女の司会の言葉チェックである。
明日の会は、全部日本語でする。日本語学科の意地?である。
しかし、まだ2年生のこと、まだ力は不十分だ。
て言うか、こういう事を通じて上達していくので、司会原稿の直しは重要だ。

 それが終わり、ふうやれやれとコーヒーを淹れた。
今回大阪から来るとき、雅子さんがてんこ盛りコーヒーを持たせてくれたので、
ありがたや、毎日インスタントじゃないコーヒーをいただくことができる。
と、思ったらそこに落とし穴があった。
ペーパーフィルターの枚数が尽きてきたのだ。

 窮すれば通ず!
使った後、紙フィルターを捨てないで、洗って乾かし、また使えばいいと気付いた。



壊れかけの浄水器がシンクの横にある。
そこに洗った紙フィルターを貼り付ける。
乾いたらまた使う。
リユース(REUSE)である。
資源がいくらでもあると思ったら、ついポイポイ捨ててしまう。
少ししかないと気付いてから、人間は工夫を始めるのである。
いったい何回ぐらい使えるか分からないが、この無漂白バージンパルプの紙フィルター君は
少なくとも3回の繰り返し使用に耐えている。
あと20枚ぐらいはあるから、交代交代で
夏休みまで耐え抜いてもらいたいものだ。


ついでに自慢すると、
ラップもいつも洗って何回か使っている(元々姉からの受け売り)。
中国のラップは、泣くほど使いにくい。ピッと爽やかにちぎれないのだ。
仕方なく、日本からサランラップを数本持ってきているが、
これも夏までには尽きてしまうだろう。
繰り返し使うといっても、不潔になっちゃあ良くない。
1回目は熱々ご飯を包んで冷凍、
2回目は何かのカバーにしたり、埃よけ、
3回目は半端な野菜をくるむ、とか
考えて使う。

我ながらホントに日本人だなと思う。
モノへのこだわり、細かい工夫。
ちょっとでも工夫して(洗っただけだが^^;)効果があったら、とても気分が良い。
節約になるし、モノを大切にしているし、
ま、一言で言うと「清貧の思想」っていうの?
私はお金を簡単に使う生活はイライラしてだめだ。
清貧さが骨身に染みついているのである。
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「本当は籠もりたい、が、やる」   2012年3月9日(金)No.305

2012-03-09 19:36:45 | 中国事情
 あさって、3月11日は日本語学科の学生たちと麦路キャンパスでイベントをする。

「3月11日にあなたは何をしている?」などというフレーズを見るにつけ、
(ひっそりしていたい、誰とも会わず部屋に引き籠もりたい)と思った。
しかし、ムリすることにした。

日本語学科の学生達に考えてもらいたかった。
「中日友好の架け橋になる」気が本当に少しでもあるのなら、
日本について、
教科書に載っている「桜」「温泉」「茶道」「伊豆の踊子」だけでなく、
「NARUTO」「ワン・ピース」「千と千尋の神隠し」だけでなく、
「ソニー」「トヨタ」「秋葉原」「松下幸之助」だけでなく、
「細やかな気配り」「整然と並び、パニックにならない高い素質の人達」だけでなく、
今、本物の日本の人びとが何を考え、何に困っているか、
どう一歩を踏み出しているのか、
もう少し関心を持ち、
知ろうとしてもらいたかった。

しかし、限られた時間でどんな日本を、どんな人々の声を紹介するか、
あれこれインターネットを見て考えた。
福島原発の修復にあたった人の生の声、
被災者の方々の困っている生の声、
いつまで被災者づらしているのか、甘えるな、という生の声…。

生の声にも色々あるもので、
私の感性は、宮城県仙台市の若者で、
一年間「スコップ団」というグループを率いて、
廃屋の泥をスコップで掻き出すボランティア活動をしてきた
平了君の声を選んだ。

彼は昨年の夏、亡くなった人達のことを思うと
音楽すら聞く気になれなかったというその時期、
ボランティアの仕事をしていると、
夜、花火があがった。
(花火か…)と、複雑な思いで眺めていたら
いつのまにか傍に来た親子がそれを見ていて、
「きれいね」「うん、きれいね」と言いながら、だまって泣いていた。
その時、花火には鎮魂の意味があるのだなと思った。

人生とは花火のようなもの、
ドンとあがってきれいに咲き、散ってしまう。
しかし、震災で亡くなった人の多くは
花火のようにパッときれいに咲くこともできずに
亡くなってしまった。

今の時期に、花火なんか無駄遣いだと言う人もいるが、
スコップ団は、明日3月10日、
泉ガ岳から空に向かって20000発の花火をぶっ放す。
天に近い場所を選んだから、
きっと見えるだろう。
下から見えなくてもいい。
これは鎮魂の花火なんだから。
お供えなんだから。
こんなことをして、ふんぎりをつけて、
生きている者たちは、
復興のことが考えられるのではないか。
そんなふうに彼は言う。

平了君は、この一年間、生き残った者として
できることを精一杯やってきただろう。
それでも、いつも心は晴れなかったという。
ふんぎりをつけて、一歩進みたいのは彼自身でもあるのだろう。

そんな日本人の若者の気持ちを
中国の若者に知ってもらいたいと思う。
明後日、11日の夕べに
キャンドル=サービスを彼らとする。



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「南昌の天気予報の怪」  2012年3月7日(水) No.304

2012-03-07 08:29:38 | 中国事情
 毎日、天気予報と現実の気温との差違がはなはだしい。
しかも、天気予報の気温は
冬なら暖かめ、夏なら涼しめに発表されることが非常に多い。
一時、毎日記録を取って比較したので、あながち主観的とは言えない。

何故だろう?
人々に「今日は過ごしやすいかも」という希望を与えるためだろうか。
(それはあまりにも子供だましな…)と思うが、案外そうかも知れない。
なにしろここは中国ですから。
南昌以外の都市はどうか、とよく比べて見るのが南京。
(南昌のすぐ上に書いてあるので)
南京も、現実の最高気温が予報の最低気温にまで達しないこともある。
やはり同じだ。

日本の天気予報は、どちらかというと
天気が悪くなる可能性を強く言う傾向があると思う。
「油断大敵、気をつけてね」という意味だろうか。
中日の違いが天気予報にも現れている気がする。

いつまでも暖かくならない今年の南昌。
今日も天気予報は『最高気温11℃/最低気温8℃』と発表しているが、
午前9時現在の気温は7.2℃。(最低気温より低いじゃん!)
当てにならないが、どうしても毎日チェックしてしまう。
私は「お日様教徒」であるので、お日様を渇望しているから~。
(ここんとこ毎日雨ばっかり…)

部屋が寒いので自衛策を講じた。
何故もっと前に考えつかなかったのか、
段ボールハウスで暮らしている人もいるというのに。
問題は、
①カーテンを閉めても、足下からスースー風が来る。
②閉めたカーテンが、風で膨れあがる。

①の対策としては、段ボールや板きれでカーテンを抑え、そしてブーツを履く。
②用に、大阪の百円ショップで買ったバスルーム用カーテンを窓に貼り付ける。
これでかなり改善された!
見た目は悪い。しかし寒いよりマシだ。






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「やっぱ、今まで遠慮していたんだな…。」     2012年3月6日(火)No.303

2012-03-06 17:56:14 | 中国事情
 4月初めの清明節の後、校内スピーチコンテストをすることにした。
テーマは『私と日本語』。初めは当たり障りのない、眠たくなるようなことばかり書いていた3年生だが、
授業で、
「こんなことを書いたら日本人の先生に失礼、とか思う必要は全くありません。
中国で日本語を学ぶということは、会計や金融、英語やフランス語を学ぶのとは全く違います。
日本語学科の多くの皆さんの心には、言うに言えない棘が刺さっているのではないでしょうか。
それをこそ書いて下さい。」
と言うと、数通、添付ファイルで送られてきた。
そのうちの一通をご紹介。

              「私と日本語」王小ぜん

  私と日本語の関係は、例えば真っ暗な夜道を歩く人と、その人が手に持つ提灯のようなものだと思います。
(どういうこと?)と皆さん、お思いですよね。どうぞ私の話をお聞き下さい。  

 ある時、私は九歳の従弟とおしゃべりをしていました。
   「ね、姉ちゃんは大学で何を勉強しているか、知ってる?」
   「いいや、知らない。」
   「日本語だよ!」
   「え!僕、大嫌い、日本人って」
遊びながら話していたいとこは突然、手の中の玩具を投げ出して、強い口調で言いました。
雰囲気は急にまずくなりました。いとこの本気な表情を見て、
私は何も言えずにその場を立ち去るしかありませんでした。

 ここに座っていらっしゃる皆さん、財経大学で日本語を学んでいる皆さんも
このような経験はありますせんか。
日本語を学び始めて、初めて中日関係の微妙さをより深く実感したのではありませんか。
純粋な気持ちで日本語を学んでいるときに、どこかからいろいろな声がいつも聞こえてきませんか。
私はそうでした。本当に心細く、孤独でした。
一生懸命学んでも、お年寄りは嘆き、子どもはおもちゃを放り投げて怒るのです。
「日本語を学んでいます」と胸を張れないのです。

 にもかかわらず私は、今までずっと日本語を学んできました。
考え、考え、の2年半でした。
日本語を学ぶとは、どういうことなのでしょう。
それは、「日本語」という遠くまで続く、長い、曲がりくねった道に一歩踏み出すということです。
平坦ではありません。
しかし、感覚を研ぎ澄ましてみると、その道の途中で、
私たちは多くの日本人の真の姿や、日本人の中国人に対する本当の思いに触れることができます。
日本人の目から見た中国人の様子を自分の目で確かめることもできるのです。
これが、私にとっては暗い道を照らす提灯(ちょうちん)の明かりでした。
 
 多くの日本語学習者は
「自分の夢とは中日友誼の橋になることだ」
と言います。素晴らしいと思います。でも、その橋を架けるためには、
まず、しなければならないことがあるのではないでしょうか。
私は中日両国の人民が理解し合うことを抜きに、
その橋を架けることはできないのを自分の体験から痛感しています。
「中日友好」という、せっかくの大きな素晴らしい理想を、ただの夢で終わらせないためには、
一人一人が力をつなぐことしかない、と思います。
  真っ暗な夜にたった一つのちょうちんを持っている私だけでは、
全然強い力になれないんです。
だから、ここで、皆さんにお願いがあります。
どうか、私と一緒に、長くて暗い夜道を歩いて下さい。
中日友好の橋を架けるための、その土台を築くための日本語を、
一人一人が手に持って、
ともに長い、曲がりくねった道を一緒に歩いていってもらえませんか。
お手伝いいただけませんか。


何だか、かわいそうになってしまう。
江西省の大学で日本語を学習する子達の実感なのだろう。
日系企業も少ないトラディショナルな省だからねえ。
折しも、中日友好40周年の年に、こんな夜明け前みたいな文に出会うのも
今の両国の現実を表現しているのかも。
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「白を黒とすり込まれないようにしよう」  2012年3月4日(日) No. 302

2012-03-04 07:42:49 | 日記
 何か事件があって容疑者が逮捕されたとする。
しかし、その人はやっていない。
それでも
「お前がやった、お前がやった、こうこうこういう方法で!」
と毎日朝から晩まで取り調べを受けていたら、
(そうか、自分はやったかも知れない。こんなにみんなが言うならやったんだろう)
とまで思うようになる。
そんな事例はいくつもある。

小学校で働いていたとき、
子どもの誰かが「●ちゃんは、△やで。」
と言うと、何となくそれが事実のように広まり、
●ちゃんが担任の私に訴えてくるというパターンもよくあった。
学級会で真正面から
「●ちゃんは△じゃない」
と宣言するまで、根も葉もない話はクラスメートの中で真実と思われるのだ。
「どうして●ちゃんが△だと思ったの?」
と聞くと、
「だってみんな言っているから」
と答える。こんなことも山ほどある。

「南京大虐殺はなかった」もそうではないのか。
「なかった」説の根拠は証明されていない。
翻って、「南京大虐殺はあった」とする根拠は随所にある。
南京市には「南京大虐殺記念館」まである。
中国観光を楽しむ人々のうち、
何人がここを訪れたのだろう。
楽しいこととセットで過去の日本の消したくても消せない恥ずべき歴史をも
見るべきだと思う。
そうでなければ、日本人と中国人との意識のギャップはいつまでも消えない。
日本人は中国人に対する負の遺産を背負っていることを忘れるべきではない。
それは自虐的でも何でもない。
事実の重みを背負うということだ。
人間として当然のことだ。
ここ中国で、私は一人の人間として脳天気に暮らしているが、
歴史問題に関しては、日本人の一人として重い重い荷物を背負いつつ
話をせざるを得ない。
日本国内で撒き散らかされるゴミのような言葉には
怒りを覚える。

人は刷り込みに弱い。
特に今、日本では、自分に自信がなく不安な人が増えているようだ。
『強い声、大きい声、威圧的な声、断言的な声』
に頼りたがっていると見える。
東京都、大阪市、名古屋市などの選挙結果がそれを示している。
とにかく、自分の頭で考えよう。
見えないものを見つめ、聞こえない声に耳を傾けよう。
そう、心でつぶやく。
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「南京大虐殺検証のために」  2012年3月3日(土) No.301  

2012-03-03 18:52:44 | 中国事情
パソコンが午前中つぶれて、画面真っ暗状態だったのが、
午後に奇跡のカムバック。
本当にハラハラする。
この富士通ノートパソコン、買って3年半しか経っていないのに
故障しすぎだ。毎日(今日はどうかな、ちゃんと起動するかな)とビクビクして暮らしている。
その上、この大学のネットワークが何かと不自由で、
日本の皆さんには想像できないような不安定な使用状況なのだ。
急にブログが途切れたら(パソコンが使えないんだ)と理解していただきたい。

壊れないうちに、南京大虐殺検証に役立ちそうな記事〈その3〉を掲載する。
アメリカのニューヨーク=タイムズ記者のT.ダーディンの記事。
彼も1937年12月15日、外国人の退去命令を受けて、
船で南京から上海に向かい、その後は上海から記事をニューヨークの本社に送り続けた。
12月15日の日本軍による殺害現場は、
外国人記者が乗船前に一緒に目撃したものなので
殺害された人数などに差はあるものの全員ほぼ同じ内容の文になっているのが分かる。




T・ダーディン●ニューヨーク・タイムズ 

1937年12月18日 

上海行きの船に乗船する間際に、
記者はバンド(堤防)で200人の男性が処刑されるのを目撃した。
殺害時間は10分であった。
処刑者は壁面 を背にして並ばされ、射殺された。
それからピストルを手にした大勢の日本軍は、
ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、
ひくひく動くものがあれば弾を撃ち込んだ。 

この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、
バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、
この光景を見物させた。
見物客の大半は、明らかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。


上海12月22日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便 
南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、
歴史に残ることは疑いない。
近代軍事戦略の指示にことごとく反し、
中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、
少なくとも三万三千人を数える兵力の破滅を許した。
この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、
このうち二万人が処刑されたものと思われる。
攻防戦は、全体としておおむね封建的、中世的なものであった。
城壁内において中国軍は、
市の中心から数マイルに広がる村落、住宅地、繁華な商業地区を
大規模に焼き払って防戦し、
占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、
すべてがまるではるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。 

南京を失ったことは、中国軍にとり、
首都を失っただけだというわけにはいかなかった。
中国軍は尊い兵士の士気と多くの命を失ったのである。
上海から長江流域を下流にかけ、
絶えず日本軍と戦ってきた中国軍は壊滅的打撃を受けた。
中国軍が再起して日本軍の兵器と対抗できるような効果的攻撃ができるとは思えない。 
日本軍にとり、南京占領は軍事的・政治的に最も重要であった。
しかし、野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、
その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった。
そればかりか、日本陸軍や日本国民の名声を汚すことになるだろう
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「私と日本語~学生の作文」   2012年3月2日(金) No.300

2012-03-02 23:07:48 | 中国事情
 冬休みの作文(スピーチ原稿)宿題の一つ、
「私と日本語」のチェックが終わった。
日本語学科のほぼ8割の学生は、
自分がこの学科を選んで入ったのではなく、学校に選ばれた
(中国の大学の専攻を決定するのは大学。学生ではない)という実態が再確認された。
さらに、1年の時にニコニコ機嫌良く授業を受けていたように見えた子たちの多くが、
(辛い、苦しい、嫌だ、止めたい)と心で叫んでいたということも初めて知った。

 さらに(すごい!)と思ったのは、そんなに嫌なら止めればいい、と私なら思うのに、
彼ら・彼女らは、嫌と思うことを止めるのであった。
イヤハヤ、本当にエライ。
下の学生は3年生。スピーチ原稿なので、類型的表現もあるが、
「日本語学科で学ぶこと」は中国社会ではまだまだ冷静に受けとめてもらえない
場合があるという事例である。
また、この作文の子のように、
日本の良さを家族や友人に一生懸命説く学生が多いのも、
実に健気なのである。


「私と日本語」孫秀妹

ある朝のこと、
ジリジリと鳴り響く電話で起こされました。それは高校の友達からでした。
「お前 江西財経大学に受かったよ。」
「え~?まさか……江西省以外の大学に受かりたかったのに。」
「でもさ、お前いったいどんな神経してんの。日本語学科をえらぶなんて。」
「え?日本語学科?選んでないけど・・・。でもまあ、いっか。」
バーン! 友達が電話を切りました。私の平気な反応に怒ったのかもしれません。
この電話で私の眠気は、完全に吹き飛んでしまいました。
父の所に行って、
「お父さん、私……江西財経大学に受かったの。」
「そうか、それはよかったね。」
 「でも、専攻は日本語なんだ。」
 「えー?江西財経大学には日本語学科まであるの。変だな。」
 「行くか行かないかすっごく困ってる。」
 「日本語か、あんまり聞いたこともないし……。」
 「でも、お父さん、私、あの辛い高校4年生にはなりたくない……。」
  父は、目を閉じて、一分間ぐらい考えた後、 言いました。
 「それなら、大学に行きなさい。日本語でも仕方ないさ。これはお前の運命かも知れない。」
それは2年半前のことでした。
父のアドバイスに従い、財大日本語学科にに入学して、みなさんと一緒に今日まで日本語を勉強してきました。
日本語についての思い出は数え切れないほど持っています。勉強し始めの頃はいつもこう呟いていました。
「日本語!こいつは、本当に変なやつだな。中国語に似たところもあるし、同じ漢字なのに、全く違う意味を表して、とても覚えきれないこともある」
例えば、「丈夫」という言葉があります。日本語の「丈夫」には物事がしっかりして傷みにくいという意味を表す形容詞があります。でも、中国語では「丈夫」は名詞で女性の夫という意味です。こんなとき私は、(日本では男は強いし、頑丈なので、「丈夫」の意味が生まれた)と解釈して覚える工夫をしてみました。すると、どうでしょう。始めは嫌でたまらなかった日本語学習が、なんだか面白くなってきたではありませんか!
日本語を勉強していると日本の文化や日本人の気質にも多かれ少なかれ触れることになります。
 家族と一緒に日本映画を見た時のことです。主役の言動がどうしても理解できない家族に、私はいつも学んでいる日本文化のことでスラスラと解釈してあげました。家族が真面目にわたしの言ったことを聞きながら、やっとわかったとうなずく様子を見て、私はなんだか心から達成感が湧いてくるのを感じました。
「ああ・・・日本語を勉強するのは無駄じゃなかったんだ。役に立つ時はやっぱりあるから、よかった、日本語に出会えて」と改めて感じました。
友達に対しても精一杯、日本人の物事に対する細心さ、真剣さの事例を挙げたり、日本製の製品を紹介したりしています。というわけで、友達は
「お前、日本のスパイになったな」とふざけることもあります。
 私はそう言われても、少しも悲しくありません。かえって自分は日本語に対する、さらには日本に対する見方が360度、大転換したことに気づきました。まさにこれは噂の「屋烏之愛」ではないでしょうか。いつも「嫌、嫌、嫌いでたまらない」と言っていることはほんとに嫌なのかな、改めて考え直す必要があると思います。
 自分自身、身を持って体験したのことを通じて一つの道理がしみじみとわかりました。ある物事に対してよく知らないくせに、薄っぺらな知識や経験レベルで決めつけるのは軽率ではないでしょうか。日本語はもちろんのこと、奥深い日本文化も先入観で評価することはとてもできないでしょう。
実は、新しい言葉を勉強しているうちにたくさんの意外なサプライズも発見できます。その言葉ならではの魅力さもわかるようになってきます。
 日本語には「住めば都になる」という諺があります。初め、あまり好きではなかった日本語ですが、知らず知らずのうちに日本語が私の生活習慣になりました。久しく日本語を聞いていないとなんだか気もちが落ち着きません。スーパーで日本語の歌が流れてくるとなんだか気持ちがふわふわとハッピーになってきます。テレビで日本に関するニュースが放映されるとキュッと心が惹きつけられます。バスに乗っている知らない人たちが日本のドラマやアニメの話をしているのを聞くと、ビンビン親しみが湧いて、思わず微笑んでしまいます。
 みなさんも私のような経験があるのではないでしょうか。ならば、日本語を学ぶみなさん、これからも一緒に日本語の中に隠れたサプライズを発見する旅を続けましよう!
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