犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

日帝時代の人口⑨~農民の生活

2008-02-08 23:32:55 | 近現代史
 ここで,教科書の記述に戻りましょう。

「しかし日帝の米穀収奪は目標どおりに遂行され、この計画が中断された一九三三年でも、増産量をはるかに超過した量を収奪していったのである。そのためにわが農民の大多数は飢餓線上であえぎ、満州に新しい生存基盤を探し求めての流浪の旅に出るか、火田民に転落するほかはなかった。」

 満州への移民の原因として,「土地調査事業」で土地を奪われた,「収奪」による飢えから新天地を求めた,というのが韓国でのお決まりの理由です。
 満州移民は,先の移民統計で見るように,日帝時代以前から始まっているので,1911~1918年の土地調査事業がきっかけとはいえず,またそもそも土地調査事業によって「土地の収奪」が行われたことも,事実に反します(→リンク)。むしろ,朝鮮時代末期/大韓帝国時代に,国家による統制が行き届かなくなり,「鎖国」が厳格に守られなくなったことが原因でしょう。
 もちろん,満州国成立後,日本は本土においても朝鮮においても満州移民を奨励しましたから,新天地で一旗あげようにした人たちは朝鮮にも多かった。「飢餓で流浪」というのとはちょっと違うと思います。
 満州に渡った人々は,日本国家の権威を背景に,満州国の人々の上に立とうとした。悪名高い「創氏改名」は,満州に渡った朝鮮人から「日本の名前を名乗りたい」という要望が寄せられたことがきっかけの一つです。


 火田民というのは,山で焼畑農業をする農民ですね。純火田民は8万2000戸(1933年),普通の田畑をも耕す兼火田民を含めると24万戸,122万人(1928年)という数字があります。総督府は森林令に基づき火田を禁止,制限し,火田民を放火犯として逮捕したり強制移住させたりしたとのこと。「放火犯」というのはあんまりだけど,取り締まっていたのは確かです。

「飢餓線上にあえぎ」の部分はどうでしょうか。

 朝鮮時代から日帝時代にかけての農民の生活を,前出マサビュオー著から引用すると

「日常生活の不安定な状態は、それに対する本能的な反応として、驚異的な出産率をもたらしたが(これがまた不安定な状態を定着させる結果となったのだが)、それは同時に朝鮮の農村文明を特徴づける社会機構にその根源を持っていた。人口が増加してある一定の数に到達すると、農民はその結果、窮地に追い込まれる。

 そして、最初に食糧不足が顕著になってくる。農村労働の主目的である食料は貧弱であり、スープや穀物粥は、飢饉の際には野草の薄粥によって代用される。ごくわずかの魚、少量の肉と砂糖は、動物性たんぱく質、脂肪、炭水化物の乏しい朝鮮人の食生活の特徴である。

 彼らには蓄える余裕すらなく、その日暮らしに追われていた。

 唯一の資本は土地と家屋であった。それを売り払うことは生活を失うことである。それゆえ農民は刈り取りまえにその収穫を売却するが、その結果、高利の金を借りることになった。飢餓の際に農民を餓死から救うことができるのは高利貸しだけであり、その権力は大きかった。彼らは年利100%、ときには6ヶ月の利率100%といった高利で貸付を行う。返済のできない農民は、また別のところで高利の借金を余儀なくされる。

 貧農はそのため一生を高利の借金にうまって暮らすのであった。

 しかし、地主の土地を管理する管理人は、よりいっそう過酷であった。村民の相当数は自作農であるが、耕地の平均半分は不在地主の所有であり、残りの大部分は旧家の所有であった。一般的に言って小作料は収穫の半分であり、時によってそれ以下、あるいはそれ以上(ことに南部の豊かな土地で)であった。

 商人が農民にとって第三の敵であった。商人は強力な同業組織を持ち、物価の操作に長じているので、時機を選んで穀物の売買を行うことができた。多くの中間業者が介在するので、農民の手に入るのは、平均して最終価格のわずか4分の1程度の金額にすぎなかった。たとえ不平を訴え出ても官僚組織の壁にぶつかった(官僚はしばしば自分自身が大地主であった)。」
『新朝鮮事情』(J.プズー=マサビュオー、白水社)

 高利貸し,不在地主,商人によって搾取されていたわけです。このなかには日本人もいただろうけれど,大半は朝鮮人だったはずです。

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