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kaashあるいはダンスとスポーツの違いとは




英国舞踊界を代表するアクラム・カーン、初期(2002)の作品、Kaash(”if only")をサドラーズで。

“Hindu Gods, black holes, Indian time cycles, tablas, creation and destruction” 「ヒンドゥの神々、ブラックホール、インドの時間サイクル、インドの太鼓、創造と破壊」というサブタイトル...おもしろくないわけがない。

彼の専門である北インド古典舞踊カタックと、コンテンポラリーダンス融合の原点が見られ、近年の作品と比較しても興味深い。


さらにわたしがおもしろいと思ったのは、ダンサーが袴状の服を着ているから...という視覚的な思い込みもあるかもしれないが、このダンスが日本の武道、たとえば杖道などの動きに非常に似ているのではないかと感じたこと。

武道の動きは世界で一番洗練されている動きなのではないかと常々思っている。武道の動きが洗練されるのは当然だ。なぜなら武道の究極に目指すところは梵我一如、「我」を消すことだからだ。さもなければ実戦に耐えられない。

...もしかしたらわたしは馬鹿なことを言っているのかもしれないという自覚はある。自分では検証すらできないので許してください。


もうひとつは今、セカイ通信の記事を書くために福田恆存の「藝術とは何か」を数十回目で読み直していて、「カタルシスということ」の中で述べられているダンスとスポーツの違いについて読んだことが、Kaashを見ている最中、わたしの頭の中で際立ってきたからだ。

ごく簡単にいえば、ダンスは動と反動で織り成される円環、「創造と破壊」であり、スポーツは直線運動でなまの現実に即している、ということ。


以下、もっとくわしく。自分のメモ。
話が長いので次の***まで飛ばしてくださってもよろしいかと存じます。



芸術の本質は「カタルシス」すなわち、感情の浄化作用にある。
カタルシスの本質は「くりかえし」にある。

つまり、芸術は「くりかえし」である。

ここで言う「くりかえし」とは、

「外部から内部へ、すなわち根源から切り離されたものが根源的に復帰しようとする執拗な努力においてのみ、リズムのくりかえしがおこなわれる」(147頁)という解釈でいいと思う。


一方で、スポーツはカタルシス・くりかえしとは無縁である。なぜならば

「スポーツはいかに快感を与え、美観を与えようと、それはあくまで現実に密着しているもので、勝敗は現実にあったことでなければいけない。くりかえしのきかぬゆえん」(113頁)だからである。

この辺りはわかりやすい。


「一言にしていえば、舞踏は演戯するが、スポーツは演戯しない」のであり(111頁)、スポーツは「おおまじめ」(111頁)。「もちろんすべては他人に勝つため」(111頁)、そしてスポーツは現実なのである。

「現実は無限直線のようなものです。が、芸術は円環を完成する。舞台上に子供や犬猫が登場したときにわれわれが感ずる不安(中略)うっかりするとかれらは舞台の外に逃げ出して無限直線のうえをひた走り、二度とふたたびもどってこないのではないかという気がする。観客はそこに芸術の環境を破壊するなにものかが忍び込んでいることを感ずるーそのなにものかとはなまの現実であります」(115頁)


「現代のスポーツは記録をめざしているがゆえに、進歩の概念と同様、往きがあって復がない運動であります。動があって反動がない。このことが、舞踏とスポーツを区別するーあるいは芸術とその他の人間活動、たとえば科学とか日常生活とかいうものを分けるー根本的な要因ではないかとおもいます。芸術には動があっても、それはかならず反動をともないます。いや、むしろ反動のために動を起こすといってさしつかえない。静止と完成とを獲得するために、わざわざ乱れた動きをやってみる」(113頁)

もうこの部分を読むだけでもこの本を手に取る価値があると思う。


***


ということは武道は、近代と共に西洋の影響を受けてスポーツ化されてしまったところがあるが、もともとはやはりスポーツではなく、芸術なのだ。


また、たとえば若かりし頃のシルヴィ・ギエムや、エフゲニー・キーシンのパフォーマンスが、「機械的」とか「スポーツじゃないんだから」などと揶揄されたのも、「無限直線のような現実」が見えること、それからきていたのかも。

無論、彼らはそんなステージはとっくに卒業して唯一無二のアーティストになりましたが。



全部読んでくだだった方、ありがとうございます!
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