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混乱するヨーロッパ


翼の折れたエンジェル...修復中のノートルダム



先月末からパリに滞在していた。

主な目的は

ルーヴル美術館でのレオナルド・ダ・ヴィンチ死後500年展覧会
ルイ・ヴィトン財団でのシャルロット・ペリアンの展覧会
そしてひやかしでオートクチュールのショウ

と、大変お気楽な感じだったが、たまたま英国のEU離脱の瞬間と、新型肺炎の脅威に重なった。



小雨のヴァンセンヌ城



奇しくも英国がEUを離脱した2月1日に、パリ北駅からロンドン・セント・パンクラス駅に向けて出入国ゲートを通った。
移行期間がほぼ一年間設定されているためか、入管での混雑もダイヤの乱れもなく、どちらかというとあっけないイベントとなった。

一方では英国人の団体が、パリでフランス人から、「離脱するならもう来るな」とか、「英国人は馬鹿だ」などと罵られたという話を又聞きした。
ニュース番組では、英国のある貧しい街の様子が映し出され、老人は「大英帝国をもう一度」と、若い人は「これで自分が割を食うことはなくなるはず」だと離脱を言祝いでいた。



蜂蜜色、パリ植物園



英国のEU離脱は今後の経済や社会の混乱状態が気になるものの、パリやロンドンの大都市が目の前の脅威として感じているのは新型肺炎の方だろう。

わたし自身は鈍感だからか、パリのホテル、エステサロン、百貨店、レストラン、ショーや展覧会の会場、地下鉄内、きわめつけはルーヴル美術館のラッシュアワーのような大混乱時、昨夜ロンドンで観覧したイングリッシュ・ナショナル・オペラの満席御礼会場においても、避けられたり、無礼を受けたり、奇異の目を感じたりということは一度もなかった。
パリのサービス業に携わる人たちは、わたしが使う金額が小さくても、質問がくだらなくても相変わらず親身になってくれ、食事時やショウの会場で隣になった一般の人たちもフレンドリーに話を振ってきた。

が、アジア人すべてが「黄禍」かのごとく、的外れであからさまな差別にあったり、避けられたりしている話もニュースで読んだ。
これをきっかけに、今までくすぶっていたあらゆる差別問題が表面化するかもしれない。
もし、わたしが公共の場で差別されたり、誰かが差別されている場面に出くわしたら...毅然と正気で対応できるだろうか。自信がない。どんな態度で対応するのが一番ふさわしいのだろうか。



サン・ルイ島、薔薇色の黄昏前



去年のことだったか、知的だと思っていた日本人の知り合いが、「日本は素晴らしい国だから、外国人におかされないように鎖国して一切の付き合いをやめればいいのに、そうしたらまた平和になるのに」と言うのを聞いて、絶句してしまった。

わたしの欧州住みのバイブル、オルテガ著『大衆の反逆』から引用しつつ、自分を戒めたいと思う。



サン=ジェルマン・デ・プレ



「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性! これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局<文明>というただ一語につきるのであり、文明は<キビス>つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしょうとするのである。」(中公クラシックスP.89)

「じっさい、これらすべては、ひとりひとりが他人を考慮に入れるという、根本的、前進的な願いを前提にしているのである。文明はなによりも共同生活への意志である。他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは分裂の傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、互いに分離し敵意を持つ小集団がはびこる時代である。」(P.89)

「敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。(中略)ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対政党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は(中略)大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。」(P.90)

異なった言語を話し、理解できない考え方や生活習慣を持つ、想像を超えた他者と共存できる人のことをオルテガは「市民」であると定義している。
他者とは、隣のちょっとかわったおばさんや、頑固者の上司などというレベルではないのである。
そんな異質な他者と共同体を構成することのできる能力、対話能力を持つ人が「市民」であり、社会から「市民」が少なくなればなるほど社会は野蛮化する、とオルテガは言う。その通りだと思う。
ちなみにオルテガが並でないのは、この他者の中に理解を超えた「自己」を含めていることだ。

逆に大衆とは、
「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な<思想>をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」(P.84)

と、自分が知的に完全で、何でも知っており、常に正しい判断を下せ、しかも自分は多数派に属しているからオッケー、少数派は黙れ、と思い込んでいる人のことである。


わたしたちはどんな社会を未来に描き、次の世代に残したいだろうか。


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