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映画 conclave  邦題は『教皇選出』




年の瀬、日本から英国へ帰宅して一番にしたのは映画を見に行ったことだった。と、前回も書いた。

レイフ・ファインズ主演のConclave。邦題は『教皇選出』。

わたしは最近は映画をほとんど見なくなったし、ましてや映画館に足を運ぶなぞ...
バレエやクラシックのコンサートなら三度の飯をパスしてでも行くのだけれど!

それでも一握りの俳優が出る映画は見たくなる。英国の怪優レイフ・ファイアンズはその一人だ。

あれほど人物を演じ分けられるなんて、たとえば実際の裁判や警察や学会で証言・発言しなければならない時、人を説得したり、騙したり...お手のものなんでしょうなあ、と思ってしまう。


タイトルのConclave『教皇選出』、日本語では歴史の授業でも「コンクラーヴェ」と習ったが、英語では「コンクレーヴ」と発音する。

話の筋自体は、新ローマ教皇選出の過程の政治的取引であり、登場人物も割とステレオタイプが多く(アメリカ人枢機卿がリベラルで、イタリア人枢機卿が保守だとか)、シーンもバチカン内に限られるものの、話をどんどん引っ張っていけるのは演技派の俳優が揃っているからだろう。


それはいいとして、わたしはレイフ・ファイアンズ演ずるトーマス・ローレンス枢機卿によるスピーチだけでもこの映画を見る価値があると感じたので、2024年のシメとして書く。


トーマス・ローレンス卿は、カトリック総本山、ローマ教皇を頂点とするピラミッド型の組織の中で位を極めた人物であり、周囲からは教皇候補の一人と目されている。
彼は前教皇の追悼スピーチをこう始める。

"Certainty is the great enemy of unity; certainty is the great enemy of tolerance."

「確実性は共生の最大の敵です。確実性は寛容さの最大の敵なのです。」

(約はモエ。unityはこの文脈では訳し難いが、「団結」や「統一」とするよりも、「調和」や「共生」の方が意味が際立つと思い、そう訳した。似たものが団結する、というよりも、バラバラなものが調和する、という意味が強いと思うからだ)

確実性が共生の最大の敵であるのは、わたしも全面的に同意する。

しかし宗教者がこのように発言したのにわたしは驚いた。

神・真実という動かせない確実性とか、「われわれは真実を知っている」とか、「この教義は間違っていない、間違っているのはヤツらだ」という無批判性こそ一神教の核である(疑いや批判を挟まないのがすなわち信仰である)...というのが、一般だろう(まあ、これは映画だけど)と軽々にも思っていたからだ。


では信仰とは何か。彼はこう続ける。

"Uncertainty is the essence of faith. It keeps us humble, reminds us that we are not God, and that we must always seek Him."

「不確実性こそが信仰の本質です。不確実性はわたくしたちを謙虚に保ち、わたくしたちが神ではなく、常に神を求め続ける必要があることを思い出させてくれます。」

イエス・キリスト本人の最後の言葉の一つ「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。」も不確実性である、と。


"Our faith is a living thing precisely because it walks hand-in-hand with doubt. If there was only certainty and no doubt, there would be no humility, no tolerance, no humanity."

「わたくしたちの信仰が生きたものであるのは、それが懐疑と手を取り合って歩んでいるからです。もし確実性だけがあって懐疑がなければ、謙虚さも、寛容さも、人間性も存在しないでしょう。」


常に懐疑する...という知的負荷の高い考え方をするのは科学である。
カール・ポパーは、科学の理論や仮説は常に反証されうるものでなければ科学ではない、という。
つまり、科学の進歩とは、理論の正しさを証明することにあるのではなく、理論を試して誤りを見つけ続ける(反証する。これを反証可能性という)過程で成し遂げられると。

ローレンス卿の考える信仰はこれに似ている。
彼は、人間は、神や真実を『間違う』場合がある。間違う可能性に自覚的で、それを修正し続ける不断の努力が信仰であると言っているのである。

話が多少それるが、一般にユダヤ人に優秀な人が多いのは、彼らがこういう考え方を叩き込まれているからだ。
彼らは、人間の不確実性を通じて、神の確実性を推考しうると考える。しかし未だ(いや未来永劫)人間はそれに到達していない、と。


わたしはこの考え方を全面的に支持したい。

宗教的な争いや分断以外にも、われわれの社会は「確実性」で満ちている。
真実、正義、正しいのはわれらだ、という、ほとんど無根拠の思い込みである。


例として、イスラエルやロシアでもいいのだが、わたしは兵庫県出身ゆえ、斎藤元彦知事問題を取り上げよう。

選挙期間中、二馬力で戦った斎藤知事のダークな部分を、立花ナニガシという粗雑な話をする人物が担っていたことは周知の事実だ。

その立花氏が好んで使うマジック・ワードが「真実」である。
「真実」とは確実性である。

彼はまず、自分の話す「真実」(確実性)を信じろ、話はそこからだ、と持っていく。
実際「立花氏は真実を語っている」と信じている人は少なくない(だから斎藤知事が再選した)。

「これが真実です」と言われると、人々は簡単に思考停止に陥ってしまう。
心理学的にも、人間は「断言的な態度」をとる人に影響を受けやすい(自信ヒューリスティック)。
断言的に話す人物は、話の内容の正誤には関係なく、カリスマ性やリーダーシップを備えていると評価され受容されがちである。
ことほどさように人間は「不確実性」に耐性が低く、明確な答えや断定的な意見を示す人を欲するものなのである。

自分で材料を取りに行き、検証して考え、結論を出すよりもその方が楽だし、しかも自分は「真実」を知っているという優越感にもなり、いったんその「真実」(確実性)を受け入れてしまうと、その「真実」に沿うように情報を取捨し、「真実」に合う都合のいい筋道でものごとを理解するようになる。

そして「真実」を断言する人に問題の解決をゆだね、同じ真実を共有しない人、共感しない・できない人やものは無視し、その異質なものを排除するようになる。選挙運動期間中、暴力沙汰が起きたのも記憶に新しい。

ローレンスが確実性を疑い、警戒するのはこの点からであろう。
人間は間違うことがある、節度を持て、と。
信仰とは、確実性・真実・神の介入なしでも、よりよい社会、公共の調和をもたらそうとする人間の不断の努力であると(わたしはそう思う)。

わたしが敬愛するオルテガが言うように、文明は、「真実」や確実性を共有した「仲間」でも「同類」でもなく、「共感」も持てず、「つながり」も「絆」もない他者と共生するためにある。

宗教は文明である。

それは不確実で無能な人間が、「野蛮」に後退しないための不断の努力なのである。
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