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カタリ派の最後




フランス南部、オクシタニー地域は多様性豊かな土地である。

葡萄畑が櫛の目のように並び、オリーブの葉が銀色に揺れ、プラタナスは巨大で、果物も野菜も味が多層でおいしい。
鴨肉は大きく、ヤギのチーズの旨味ときたら。

丘、平野、川、谷、岩山が入り組み、西にはピレネー山脈をも望む。その向こうはスペインだ。




小さなかわいらしい集落が、教会や修道院、あるいは優雅な城を中心に丘の上に形成されているかと思えば、美しい白い岩肌を見せる山頂には、岩から自然に湧いてできたかのような要塞型の山城があちこちにに見える。

山城は10世紀も終わりごろ、カロリング朝の分割化により、多く建設されたのだそうだ。


例えば一番上の写真は「風の城」と呼びたくなるケリビュス城 (Château de Quéribus) 。
左には月が...
モーリー峠を下に見る標高728メートルの岩山の上に立つ。




アルビジョワ十字軍では、カトリックへの改宗を拒むキリスト教会派のひとつカタリ派の人々が籠城して戦った場所である(1255年5月陥落)。

この一つ前の戦い、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールの陥落(1244年)では、改宗を拒んだ200人は火炙りにされたが、その残党がこちらケリビュス城に立てこもった。

ケリュビュス城に立てこもった彼らのその後の消息は辿れないとか。

まるで鳥になって天に昇ったか、風に消されたかのように。




わたしが最初「カタリ派」の名前に触れたのは、大学受験用の参考書「世界史一問一答」だったと思う。

カタリ派は12世紀から13世紀にかけて南仏で熱烈に支持されたキリスト教の一派である。


ローマ教皇を頂点にカトリック教会はピラミッド型のヒエラルキーを持ち、人々の生活を誕生から死まで、すみからすみまでコントロールし、権利権益を独占していた。

聖職者はモラル的に堕落し、汚職が広がっていた。

カタリ派は、腐敗したカトリック教会への対抗運動のひとつであった。
いわく、物質世界に汚された魂は禁欲生活によって救われ、非物質世界である天国へ入れると教え、不安定な社会に生きる人々の支持を受けたのである。

現代のわれわれには考え難いかもしれないが、死後、一番いい場所を確保したいというのが人々の最も重要な関心ごとであったのだ。


清貧と禁欲を理想としたカタリ派の増大は、カトリック教会権力を脅かすかに見え、教会はこれを異端認定し、破門した。

清貧と禁欲による生活を理想とした派としては、同じような時期にフランシスコ会やドメニコ会などがあるにもかかわらず、異端認定されなかったのはローマ教皇に対する従順が会則だったからだろう。

こちらも現代人には考えにくいが、破門されたら天国に入れなくなるため、キリスト教徒にとっては大ごとなのである。




この時代、フランスは統一された国ではなく、カタリ派支持が広がっていた南仏は、北仏よりもずっと豊かだった。

南仏の諸侯は、聖俗の長、教皇からもフランス王からも支配が及ぶことを嫌い(それほど南仏は強大だった)、カタリ派取締りを無視した。
当時はフランス王とは言っても、諸侯とほとんど横並びの存在であり、王にしてみればどうしても南仏を併合してフランスをひとつの国として統一し支配したい。

こうして聖俗の欲望が一致し、教皇が南仏へ送り込んだ改宗を説く説教師が暗殺されたことをきっかけに、カタリ派とカタリ派を擁護する南仏諸侯を討つ異端征伐、異教徒ではなく同じキリスト教徒に向けての征伐が行われたのである。これがアルビジョワ十字軍だ。

この十字軍は異端征伐というよりは、フランス王と北仏の諸侯らが、王権に服従していなかった南仏諸侯らを服従させ、その土地と土地のあがりを奪うためのものであった。
これがきっかけとなり、フランスの南北は統一される。


カタリ派の信者たちは改宗を迫られたら喜んでカタリ派信者のまま死を選んだという。

強い風が吹き、空を遮るものは何もない天空の城は、天国にとても近いように思えたことだろう。
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