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Brugge Style
馬車道あたりで待っていて
わたしは神戸の出身だ。
外国に住むようになってもう四半世紀以上が経過するが、神戸に対する「イメージ」には異常なほどの愛着を持っている。
わたしが子供の頃の神戸には、外の世界とつながったハイカラな文化が残っていたが、21世紀の今となっては、そのイメージとしての神戸はどこにもほとんどどこにも存在しない。
いや、もしかしたら、わたしが子供の頃にもそんなものはなかったのかもしれない。
どこにも存在しないからこそ、それを求めてふらふらとさまよい続けるのかもしれない。
具体的にどんなイメージかというと、1853年、ペリーが来航。江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結。日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、神戸、横浜、長崎、新潟、函館を開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。
江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結する。
そのころ、遠くから来た外国人が自国を懐かしみながら持ち込み、日本の生活様式を混ぜたような、単に並列しているような生活様式。
坂の上の、奇妙に洒落た家に灯りが灯っているのを、「ここではない、どこか」として、眺めているような気持ち...
横浜には住んだこともないのに、ここに来るとひどく懐かしい気持ちになる。
今回のZimermanのリサイタルのプログラムには、ドビュッシー(1862年 - 1918年)の『版画』が含まれており、この名曲が横浜のイメージにぴったり重なったのは、ドビュッシーの時代が、外国人居留地の歴史にぴったり重なるからだろう。
ロマン主義の真髄は「ここではない、どこか」だからであるからして。
世の中の雰囲気と音楽は切り離せないのである。
あとはやはり名曲『恋人も濡れる街角』ですな。
夜中、鼻歌混じりに歩いた。
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