goo

日没はガムランの調べ




(今日は最後に天女たちの写真を載せたので、文章は飛ばしても写真は最後までぜひ!)


20世紀フランス現代思想の巨星、哲学者で人類・民族学者のレヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』には『日没』に割かれた章がある。

レヴィ=ストロース大先生の、博覧強記、観察力、人間の可憐さへの眼差し、修辞のすばらしい技術と味わいが、何度読んでも心に染み渡るすばらしい章だ。全部引用したいくらい。


「少しずつ、夕暮れの深い構築が折り畳まれていった。一日中西の空を占めていた塊は、金属質の一枚の薄板に押し延ばされててしまったように見えたが、この薄板を背後から照らしていたのは、初め金色で、ついで朱色になり、さらに桜桃色になった一つの火であった。すでにこの火は、徐々に消え去りつつあった捩れた雲を、溶かし、磨き、そして小片の渦巻きの中に取り上げようとしていた。」
(レヴィ=ストロース著 川田順造訳『悲しき熱帯 I』中公クラシックス 103ページ)




「日没には、はっきり区別できる二つの段階がある。初めのうち、太陽は建築家だ。これに続く、少しのあいだ(太陽の光線が屈折しており、直接射しても来ないあいだ)だけ、太陽は画家になる。太陽が水平線のかなたに姿を消すが早いか、光は弱まり、刻々複雑さを増す見取り図を出現させる。白昼の光は遠近感のある眺望の敵であるが、昼と夜のあいだには、幻想的な、そして、束の間の生命しかもたない構築物のための場が存在するのである。夜の闇と共に、すべては再び、見事に彩られた日本の玩具のようにひらたいものになってしまう。」
(同上102ページ)




「(日没)は始めと中と終わりのある、完全な一つの上演である。このスペクタクルは。十二時間のうちに相次いで起こった戦いや、勝利や、敗北を、縮小された一種の映像として、だが速度を緩めて示すのである。暁は一日の始まりでしかないが、黄昏は一日を繰り返して見せるのだ。」
(同上97ページ)




「日没は、人間を高め、彼らの肉体が今日一日その中を彷徨った、風や寒暖や雨の思いがけない移り変わりを、神秘的な形象のうちに集めてみせるのである。意識の文もまた、空に広がった綿のような、これらの形の中に読み取ることができる。」
(同上97ページ)




バリ島では、日没はガムランとバリ舞踊のテーマである二元論の世界観と、二項対立がせめぎあって生み出す新しいハーモニーによって彩られる。

昼と夜の2つのせめぎ合い、そのはざまに、香るように美しい日没の束の間の時間が生まれるのだ。

この32ビート5音階の音楽は、トランス状態へと人を誘う。個が消え、もっと大きなもの(宇宙とか過去とか人類とか)と同化するような気さえする。
わたしは、ストラビンスキーの『結婚』や、雅楽を思い出す。




かなり中毒性のある音楽と、象徴性も複雑な舞踏で、アマンダリでもアマンキラでも開催の夕べにはつとめて見学に行き、追っかけみたいでここでは言いたくないくらいの回数(笑)見せてもらった。
たぶん天女ちゃんたちは「あのひとたち、まだいる...」と思っているだろう。

特にアマンダリの舞踏グループは、村の少年少女の放課後課外活動としての音楽・舞踏クラスをサポートしており(アマンダリ内でクラスをやっている)、レベルが非常に高い。ダンスの知識が少しでもある人なら、9歳から16歳ほどの少年少女の舞踏の品のよさとレベルの高さが一瞥で分かるはずだ。




これらの音楽と舞踏は、現代ではかなり「オリエンタリズム」化(オリエントをオキシデント=ヨーロッパの思考様式で見た、の意)され、オキシデント=ヨーロッパ好みに加工されているものの、だからといってこれを即座に「観光客用」としりぞけるのもどうかと思ったりもする。

そういえば『悲しき熱帯』にはこんなくだりもある。

「それを退廃や金儲けの証拠と考えることさえも、民俗学的に甚だしい誤りであったと言うべきであろう。なぜなら、移し変えられた形態の陰に、このようにして、先住民社会の特徴というものが再び姿を表していたからである。すなわち、高い身分の生まれの女性の持っている自恃と権威、外来者の前での虚勢、低い身分の人々に対する尊敬の要求などがそれである。女の装いは、その時の好みや気分次第のものだったかもしれない。が、この女を駆り立てていたあのような振舞いは、元の意味をそっくり保っていたのだ。それを伝統的な制度の脈絡の中で復元するのが、私の仕事である」
(同上307ページ)

他の例では、バリ島では火葬の儀式を観光客にも公開するそうで、これをわたしは「葬儀まで金ヅルにするほど資本主義が入り込んでいるのか」と嫌な気持ちになったのが、むしろ、死者を送り出す際に参列者をより多く集め、より規模が大きくより盛大な儀式を執り行うことで、一族の威信と富を示すために意味があり、社会的にとてつもなく大切なのだそうだ。つまり観光客は「枯れ木も山のにぎわい」なのである。

文化というのは決して静的なものではなく、ダイナミック(動的)なものなのだな...
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« aman xvi そして月夜が... »