日本・ベルギー・英国 喫茶モエ営業中
Brugge Style
ショパンと花と、美は時間の中に
聖ヴァレンタインの日に、夫が素敵な花屋を発見したそうだ。
こちらは彼が一から好みを伝え、あれはダメ、これもダメ、と作ってもらった花束。
花瓶に移したくないほど完璧なので、しばらくこのまま飾っている。
......
あなたが花を好きなように、わたしも花が好きだ。
花の対称性、規則性、生命力を現す色彩、滑らかな曲線などは、人間の脳が好む特定のパターンの一つである。
しかし、よく見ると花びらには微妙な歪み、色のグラデーションなど、完全な均衡をわずかに崩す要素が見られる。
つまり、人間が快感を覚えるのは、完全に規則的なもの(退屈)でも、完全にランダムなもの(混乱)でもなく、予測可能性と予測不能性のバランスが取れたものなのなのであろう。
黄金比である。
「予期できるパターンとそこからの逸脱のバランスの絶妙さ」が、少なくともわたし個人が、花、バレエ、クラシック音楽、視覚芸術などを好む理由の一部かと(今、書きながら思いついた・笑)。
例えば、上の写真には娘が散らかしたショパンの楽譜が舞っているが、ショパンの曲には、安定したリズムや和声進行の中に、意外性のある転調や装飾音が散りばめられている。
この天才的絶妙なバランスが、有機的な美しさを生んでいると言える...(言える?)
ルバート(自由なテンポの揺れ)にさえ、一定のリズムを持ちながら、微妙に「呼吸する」ような自然な動きがある。
花も、自然で呼吸するような乱れを含んでいる。
人間はこのような「生命のリズム」に魅了される傾向があるのだろう。
あるいは、同じ楽譜を演奏しても、演奏者ごとに非常に異なる表情を持つであろう。
これは、一輪一輪の花が微妙に異なる個性を持つのと似て、一回性や、儚さと深く結びついている。
ここまでくると、「時間」を体験することこそが、ショパンの音楽や花に、われわれ人間が魅了される本質的な理由なのかもしれない、と思うようになった(たった今・笑)。
花はその刹那的な美しさを通して「時の流れの儚さ」を強調する。
同じように、ショパンの音楽は、時間の経過を「音の流れ」として体験させる。
特にテンポの変化は、時間の伸縮を音楽的に再現しており、聴く者に「時間が流れる」という感覚を直接的に与えるだろう。
これは、単なる時計の時間とは異なり、主観的で生きた時間(ベルクソン的な「持続」)に近いものだ。
クラシックの和声進行の基本を守りつつ、突然の転調や装飾音で予測を裏切ることで、聴き手に「次に何が起こるかわからない」緊張感を与える。
このバランスによって、人間はは「今この瞬間」を意識させられ、時間をより深く体験する。
ジェットコースターが好きな人もこれを感じているのかしら。
黄金比は完全な規則性ではなく、動的なバランスを持つという。
それこそが、人間が「時間の流れの中で美を感じる」感覚なのかも...
黄金比は、時間の中で生まれる美しさを構造化したものなのだろうか。
つまり、黄金比が人間にとって美しく感じられるのは、それが単なる静的な規則ではなく、「時間とともに変化する美しさ」を体験させるものだからなのだろうか(知らんけど・笑)。
人間は、美しさというものが、「時間の流れの中で生まれ、消えていく」ことに感動するのではないか、と思う。
花もショパンの音楽も、「美は時間の中にしか存在しない」ことを教えてくれるものなのだ、きっと。
花束はまるで音楽が聞こえてきそうな春の色の花である。
« 「無意識の世... |