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神戸にポートタワーのある限り




海ぞいのこのあたりの風景は特定の神戸っ子世代には特別の感慨を呼び起こすと思う。
反対側を振り仰げば、山肌に神戸のマーク。


先日も書いたが、70年代から80年代にかけ、敏腕年経営者だった笹山神戸市長のもとで、神戸は「株式会社神戸」と呼ばれたほど大きく発展し、神戸っ子は不遜にも神戸を「神戸共和国」として独立させようなどど(もちろん冗談だけど)息巻いたのだった。
もちろん最近のていたらくを見れば盛者必衰のことわり、である。

ちょうどわたし自身も若く、戦後日本経済は80年代後半におけるバブル経済絶頂期の前夜を迎えていたのだ。

日本の少なくない人々の意識は外国に向かい、昔から外に向けて開かれていた神戸の和洋折衷の文化や暮らしや街並みは、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代の憧れにぴったり合っていたようだった。

80年代、それまで神戸ハイカラの通奏低音となっていた文物が、突如一般向けに商品化されたかのようだった。

カフェバアが乱立し、おしゃれなケーキ屋さんや喫茶店、バア、個人の輸入品ブティックが増え、若者向けのレストランや、夜遅くまで(朝まで)遊べるスポットがたくさんできた。

うちっぱなしのモダン建築、生まれ変わった洋風の建物。

美術館で催しが増え、百貨店でもアートが気軽に売買された。

フランスはもとより、イタリアのファッションがもてはやされ、男女ともにおしゃれに夢中になった。
男の子は女の子に対する「優しさ」を競ったりした。
誰もが香水をつけるようになり、ダンス・ミュージックが流行った。

大学生も車を持つのは当たり前で、車で海岸沿いを走っては海の見えるしゃれたレストランへ行き、山の手のプールやテニスコートに行きし、ホテルで食事。
あちこちでパーティーがあり、ホームパーティーも盛んで、六甲山の別荘で夏を過ごし、冬はもちろんウインタースポーツ。

海の沖合には埋立地が整えられ、未来的な街ができた。

一方で、バブルとは無縁な生活をしていたわが実家では、あいかわらず鯉が泳いでいた。安藤忠雄さん設計の友達の家とか、イタリアの大理石の噴水のあるお宅に憧れたものだ。


あれから30年が経って、失ってしまったあの頃を懐かしく思いながらメリケンパークの方を見ると、ポートタワーだけが時と震災をも乗り越え、あの頃と変わらず立っている。


夜半過ぎ、今このパーティーを去ったら、その瞬間にもっとおもしろいことが起こりそうでなかなか去れなかったあの気持ちを思い出す。
それが何かはわからない。もしそれに形があるとすれば(形にした途端になんかすごくつまらなくなるが)素敵な恋愛の始まり、のようなものだったかもしれない。わからない。

今もわたしは同じような気持ちでなかなかこの街を去ることができないのだ。
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