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Brugge Style
old england あるいはイングランド王国
ここはやはりアングロサクソンの王の銅像の写真を置くべきなのだが持ってないの...
昨日、イングランドのわが家の、ささやかな庭に咲く薔薇を、出入りの庭師さんが「オールド・イングランド」と呼ぶ...という話をしたことから。
今日も芋づる式に。
オールド・イングランドといえば、バブルの頃、日本でも流行ったパリの服飾店を思い出す。19世期にパリに設立され、ブリュセルにもかつて店舗があり、今もその美しい建物が残っている。
英国でオールド・イングランドといえば、1066年のノルマンの征服以前にあった、アングロサクソンのイングランド王国のことだ。
ややこしいのでここで超簡単な年表を...
紀元前7世紀ごろから ケルト人の侵入
紀元前6世紀、7世紀 ローマ帝国
5世紀ごろ ゲルマン人(アングロサクソン人もゲルマン人の一グループ)侵入
6世紀後半から10世紀初頭 アングロサクソン七王国(アングロサクソンによる大国小国、割拠時代)
10世紀初頭に統一 しばしばヴァイキングの侵入を受ける(ヴァイキングの王も出る)
1066 ノルマンによる征服
「このノルマンの征服をもって古くはケルト人、そしてローマ人、アングロサクソン人、デーン人と続いてきたブリテン島に侵入・移住してくる人々の波は終わりを告げ」る(以下、カッコ内はすべて 桜井俊彰著『消えたイングランド王国』集英社新書からの引用)。
このように、現在のブリテン島に住む人々が、純粋な単一民族であると信じるには相当ナイーヴでなければならないのである。
最近の研究で、一万年前にブリテン島に住んでいた「チェダー・マン」は褐色の肌に青い目を持っていたことが分かっていますしね!
話を戻す。
1066年のノルマン征服以前のアングロサクソン時代を「オールド・イングランド」と呼ぶ。
いわば、現在もノルマン征服後、なのである。
え? 英国ってアングロサクソンの国じゃないの? と思われる方もおられるだろう。
なんといっても、「アングロの土地」がすなわち「イングランド」だし...
アングロサクソンを征服したノルマンとは誰でどこから来たのか?
彼らは現フランスのノルマンディ地方から来た。
「ノルマン」はその名の通り、それよりも前に北欧から南下して来てすでに長くフランスに定住していた、いわゆるヴァイキングの子孫である。
1066年にフランスのノルマンディ公ウィリアム(ギヨーム)すなわち征服王ウィリアム一世によって「オールド・イングランド」(イングランド王国)は征服され、これ以降、支配階級は当然ノルマン人というフランスから来た人たちに総入れ替えされてしまう。
なんだかすごいスペクタクルですよね...
時代は下り、征服王ウィリアム一世の孫、ヘンリー二世(リチャード獅子心王の父)に始まるアンジュー朝からは、さらにフランス化が進んで行く。
例えばヘンリー二世の妃で、リチャード獅子心王の母親であるアリエノール・ダキテーヌ女伯は、フランスのなんと3分の一を支配していたのである。
フランスの分家であった彼らがフランスとたもとを分つことになるのは、英仏百年戦争(1337-1453)の時期からで、この戦争も「フランス同士のお家騒動」のようなものだった。
しかしこの戦争がきっかけになって「われわれはフランス人ではなくブリテン島のイングランドに住む人間である」という意識が芽生えるのである。
言語も公用語になっていたフランス語を取り入れつつ、英語を洗練させて行く。
その時に自己を同化させたのが、消えたアングロサクソンの時代だったのかもしれない。
「イングランド王国が、もっともイングランド的だった時代。アングロサクソン戦士たちが燃え尽きる流星のように輝き、戦士集団と形容される彼らの社会が終焉を迎えるまでの間。それがアングロサクソン・イングランド王国でした。短いながらもひときわ眩しい光彩を放ったアングロサクソン戦士への鎮魂歌(レクイエム)ともいえるこの時代」
1000年経った今でも、フランスから来た人々に征服される以前のオールド・イングランドの群雄割拠の時代は現在のイングランドの人々の心の故郷だという。
本当かしら。さっき庭に遊びに来ていた娘の親友イングランド人に聞けばよかったなあ。
これぞアイデンティティ、と言ってもいいのだろう。
「オールド・イングランド」という名前の服飾店がフランスで設立されたというのもなにか深い縁がある感じではないか。
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