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Brugge Style
「お顔が小さいですね!」
美しい人についてと言うとものすごく大げさだが、一昨日の記事から発展して少々。
夫が昔世話になった人や会社等から、ごくたまに通訳を頼まれる。
プロの訓練を受けていないことをお含みおき頂き、たいていは「クラブのママはこういう気持ちなのではないか」というノリで参加させてもらう。
そして時々困る。
コミュニケーションを円滑にし、機嫌良く過ごしてもらうのが、わたしも含めたお互いの利益になるので、誤解を招いたり、説明不足になったりするのを最も避けたい。かと言って、普通、通訳は自分の解釈や考え方まで通訳しない。
補足はどこまでしてもいいのか、いけないのか。
一番困るのがこういう時だ(ちなみに仕事の話になると両者プロなので、ほとんど困らない)。
日本の方が、
「お顔が小さい!」
「お鼻が高いですね!」
「色が白いですね!」
「俳優の〇〇に似てますね!」
とおっしゃる時。
日本人は単文のみでこれらが誉め言葉である、とすぐに了解するだろう。
「お顔が小さいですね」とおっしゃる方も、当然欧米人が同じ美意識を共有していると思っているからこそ、単文で発言なさるのだ。
しかし、わたしが学生時代以来住んだ経験のある国々(北米、中東、欧州)では、必ずしもそういうわけではない。
「お顔が小さいですね」と訳した後に、「日本では顔の小さいことが美男美女の重要な条件なのです」と付け加えたくなる。
これは付け加えるべきなのか、否か。
ブログを読んで下さっている方は良くご存知だと思うが、わたしはやたら説明したがりなタイプだ。「お顔が小さいですね」をストレートに訳して次に移るなどできないの。公の会議で通訳をしているわけではないので、かえって日本の文化背景を知ってもらえ、会話の裾が広がり、良い方に作用する...と思い、「美の条件です」と絶対に言う。
誉められてイヤな気がする人はいないのだ。
一方で、「頬骨の(位置が)高い」のは欧米人にとっては最高級の誉め言葉であり、美男美女を表現するのに小説内でもよく使われる。しかし日本ではそうでもない。いや、使われているケースを寡聞にして知らない。
今後、欧米人の誰かが日本人に向かって「頬骨が高いですね!」と言うことがあったら、わたしは絶対に「欧米の美の重要な基準なのです」と付け加え、さらに「ほら、俳優の〇〇とか、××は...」と言うだろう。
......
日本の美人の条件はほんとうに厳しい。
現代の美人には、顔が小さく、目が大きくくっきり二重で、鼻筋が通り、肌が白く、細身で...という理想型があり、それにどれだけ近いか、どれだけ遠いかで美醜が図られる。
美人画の様式美も「理想型」に限りなく近い女たちの最たるものではないか。
「理想型とそこからの距離」は日本人の普段一般の考え方にも深く影響していて、日本の良さも悪さもそこに基づいていることが多いにあると思う。
良さは、例えば、ものの規格やサービスが一環して安定していて公平なこと。礼を重んじること。
悪さは融通がきかない、同調圧力が強いことか。「40を過ぎてロングヘアやミニスカートはみっともない」「母親のくせに子供を預けて遊びに行くなんて」「〇〇は若者の持つブランド」「××はもう流行遅れ」とか、そういうのも含め、「こうでなければ」という感覚。
ああ、話が脱線しそう。
が、欧米では、顔立ちの美しさよりも、個性、自分の長所短所、全体のバランス、雰囲気、そういうものを活かせているかどうかで判断されていると思う。だってそうでないとわたしなんかがが「美しい」と誉めてもらえるわけがないではないか。
ちなみに「俳優の〇〇に似てますね」が、誉め言葉としては使われず、普段もほとんど言われないのは、理想的な誰にどこまで似ているかというよりも、自分の良さをアッピールすることの方が大切だからと考えられているからかもしれない。
もちろん以上は「比較的」というハナシで、こちらでも理想を追う人が整形地獄に陥ったり、みなこぞってブロンドに染めたがるなど、そういう現象はある。
「美」とは、人間が生まれた時から装備している「快」にかかわる本能であり、同時に「美」のノルムは文化によって、現象の仕方や経験のされ方が違うと、そういうことになるのか、やっぱり。
これだけは確実。
美しい人の概念は文化によって異なるが、誉められてイヤな気がする人はいない。
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