から始まる開会式にあわせてご法話の時間があるが、二日目からは朝起きて食事前の時間(7:20から)におつとめとご法話がある。
ビデオ撮影もあるので、朝からお参りして、子どもらといっしょにご法話を聞かせていただいた。
ご法話のはじめに黒板に大きく今日のテーマ「罪悪」と書かれる。
その読み方、意味を知っているかとのお尋ねに、子どもらが答えていく。
例年、このテーマの時には具体的に「わたしがしていること」について工夫して話される。
今年は、その部分をビデオ鑑賞に費やされた。
プロジェクターを通じて映される映像は、豚・魚・鳥・牛が、工場のような作業場で流れ作業で肉塊にされていく姿…
音楽もナレーションも無く、ただ淡々と作業する人のすがた。
生きているときは断末魔の叫びを上げるが、次のシーンではつるされた骸となり、首を落とされ腹を割かれ、血が滴り落ちる…
(いのちの食べ方)
小さい子の中には気分を悪くした子もいたかもしれない。
でも、知らないだけで、そうやって奪ってきたいのちのおかげで今ここに生かされている。
そのことを批判したり、菜食を薦めたりすることではなく、罪悪をテーマとして「わたしは何をしているんだろう?」ということを見つめるきっかけのひとつとして。
今日の先生は、そのことを投げかけてくださった。
この映像の話はいままで何度か聞いた事がある。
ご法話のテーマとしてはわかりやすいものだ。
しかし、いままで話で聞いて想像していたものと、実際に映像で目の当たりにするものはやはり違う。
ちょうど、今朝見つけたニュースに次のようなものがあった。
「学校の授業で先生が、自分の子どもの出産シーンを上映した」と言うもの。
(産経新聞)
ニュースとしては、この映像を見て生徒の一部が気分が悪くなったと保護者が訴えて、学校が謝罪したというもの。
その方法の是非は今は問わないとして、「見ていて気分がわるい」ということで、実際にあることを「隠す」ばかりでは、本当の自分を見つめることはできないんじゃないかと。
この先生はこの先生の考え方、やり方で「命の大切さを伝えたかった」ということらしい。
今日の映像も、「自分の罪悪って何?」ということを考えるきっかけになると思う。
見た目は確かにきつく、目を背けたくなるが、目を背けても自分のしていることは変わらない…これってとても大切なことだと思う。
とはいえ、いっしょに連れて行ってこの映像をびびりながら見ていたわたしの次男坊は、何も無かったように夕食にハンバーグを食べていた。
まぁ…そんなもんです。