コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

捨て物

2009-08-29 00:23:22 | 真宗

そろそろ1週間たとうとしてるけど、今日もWSにインスパイヤされた話題。

”わたし”と”ほとけさま”の関係って…

今までいろんな人と出会ってきたけれど、100人いれば100通りの「ほとけさま像」がある。
厳しいほとけさま、優しいほとけさま、上のほうで見守ってくれるほとけさま、下で支えてくれるほとけさま、内にぴったり入ってぴったりすぎて気付けないほとけさま。
どれが正しいとか間違いとかじゃなくて、この”わたし”の知識・理解・想像力に任せておいたら、自分の都合に合わせて「ほとけさま像」を作ってしまう。

これは捨て物。

そんなものを作り上げるから、今の自分の気分に沿っているとか沿ってないとかで「いる」とか「いない」とか「わからん」とか…

そこから少し聴聞が進むと、「その姿」ではなく「おはたらき」を観ていく事が出来るようになる。

罪悪など知れるはずの無いものが「罪悪深重」としれるのは、自分の力じゃない…

この世に産んでくれた親、育ててくれた関わりのある人々、先生やお同行たち、これだけのご縁やお育てを観ると、ほとけさまが働いているとしか思えない…

堕ちるしかない、堕ちて当然のこの身を、無条件でお救い下さるとは…

これらをして、「ほとけさま」は間違いなく働いてくださっていると。

しかし、その「ほとけさま」に任せる事ができるかというと、また話が違ってくる。

居られるのはわかるが、私を救ってくださるとは信じられない…

そう、こちらから信じようとしてしまう。

向こうの方から働いて、「お前が必ず聞き開くと信じている」とおっしゃっているのに。
わたしが聞くことを「信じて」おられるのだ。
こちらが信じるんじゃない。

じゃあ信心って?獲信って?

これは、私が信じたり獲ったりすることじゃない。
ただただ、仏願の生起本末を聞かせていただくことで、”結果として”信を得た状態にさせてもらえる。

私が救われる手立てをするのじゃなく、全部一方的に動いてくださっている。

わたしの頭に任せておけば、どこまで行っても「役に立つもの」が出てこない。
むしろ「役に立つもの」とおもっているものを何重にも積み重ねて、邪魔をしている。
それを剥がしてもらえば、そこには「生身のわたし」「お目当ての姿」しか残らない。

剥がされてしまえば、もうこちらがつくりあげた「ほとけさま像」や「こう救われい」とかいうものは欠片も無くなる。

「誰をいつどのように救うのか」という仏様の側の願いに従うだけ。

でも実際は、最後の最後まで、我に執着して手を放せないんだよねぇ。