そろそろ1週間たとうとしてるけど、今日もWSにインスパイヤされた話題。
”わたし”と”ほとけさま”の関係って…
今までいろんな人と出会ってきたけれど、100人いれば100通りの「ほとけさま像」がある。
厳しいほとけさま、優しいほとけさま、上のほうで見守ってくれるほとけさま、下で支えてくれるほとけさま、内にぴったり入ってぴったりすぎて気付けないほとけさま。
どれが正しいとか間違いとかじゃなくて、この”わたし”の知識・理解・想像力に任せておいたら、自分の都合に合わせて「ほとけさま像」を作ってしまう。
これは捨て物。
そんなものを作り上げるから、今の自分の気分に沿っているとか沿ってないとかで「いる」とか「いない」とか「わからん」とか…
そこから少し聴聞が進むと、「その姿」ではなく「おはたらき」を観ていく事が出来るようになる。
罪悪など知れるはずの無いものが「罪悪深重」としれるのは、自分の力じゃない…
この世に産んでくれた親、育ててくれた関わりのある人々、先生やお同行たち、これだけのご縁やお育てを観ると、ほとけさまが働いているとしか思えない…
堕ちるしかない、堕ちて当然のこの身を、無条件でお救い下さるとは…
これらをして、「ほとけさま」は間違いなく働いてくださっていると。
しかし、その「ほとけさま」に任せる事ができるかというと、また話が違ってくる。
居られるのはわかるが、私を救ってくださるとは信じられない…
そう、こちらから信じようとしてしまう。
向こうの方から働いて、「お前が必ず聞き開くと信じている」とおっしゃっているのに。
わたしが聞くことを「信じて」おられるのだ。
こちらが信じるんじゃない。
じゃあ信心って?獲信って?
これは、私が信じたり獲ったりすることじゃない。
ただただ、仏願の生起本末を聞かせていただくことで、”結果として”信を得た状態にさせてもらえる。
私が救われる手立てをするのじゃなく、全部一方的に動いてくださっている。
わたしの頭に任せておけば、どこまで行っても「役に立つもの」が出てこない。
むしろ「役に立つもの」とおもっているものを何重にも積み重ねて、邪魔をしている。
それを剥がしてもらえば、そこには「生身のわたし」「お目当ての姿」しか残らない。
剥がされてしまえば、もうこちらがつくりあげた「ほとけさま像」や「こう救われい」とかいうものは欠片も無くなる。
「誰をいつどのように救うのか」という仏様の側の願いに従うだけ。
でも実際は、最後の最後まで、我に執着して手を放せないんだよねぇ。