水曜日、伝道研究会に久しぶりに参加しました。
前半は来月にある「聞法旅行」に関わる打ち合わせ。
しかし、私は参加できないので、ちょっと話題的に蚊帳の外。
その「蚊帳の外」感を巡って、わたしの中で微妙な感情が揺れ動いたりします。
でも、ただ単にその微妙な感情を引きずりかねなかったのが、昨日あったミニカンでそのことをクライエントとして話しする機会があり、今は納まるところに収まっている感じです。
まぁ、そんな動きがあったということで…
(この辺の感覚を言語化しようとすると、かなりいろんなものが絡まってきますから、取り掛かるときはじっくりと取り掛かるしかないですね)
つづいて、テキストの羽栗先生著の「心身の革命」の輪読です。
不参加だった間にかなり進んでおり、ほとんど最後のまとめに入ってきています。
「罪悪」ということをめぐって、本文に関わること、それぞれの味わうところを出し合って進んで行きます。
たんなる知識の学習会ではなく、普段の法座で現れるところを共有しながらの研鑽は、他では得がたいものがあります。
これが一人で読んでいるだけだと、違和感を感じるところがあっても、そこを深めることをせずに、「偉い先生が書かれていることだから」と収めてしまうかもしれません。
しかし、「腑に落ちないところがあるならば、それをはっきり出して確かめる」という座談をしている集まりですから、そこに出てくる話をもとに、自分の領解をハッキリさせていきます。
すると見えてくるもの…そこには普段華光で聞かせていただいている”要”が浮き上がってきます。
罪悪感ではなく罪悪観が問題になって来るということ。
そこには「罪悪を見つめる」に留まらず、そこをめぐって自身のなかでうごめくところに「廃立」をしっかりしていくことがハッキリしてきます。
先日の支部法座で、先生から「お叱り」を受けたという話を書きましたが、今回参加したくなった背景には、その日のことが先生の口からなにか聞かせて貰えるのじゃないかというものがありました。
しかし、この”要”の部分を聞かせてもらうにつけ、そういうこだわりの部分に見切りをつけ始めている私がいます。
「本願のこころ」にふれるということで、知識じゃなく身に応えるところで聞くことは、普段からハッキリしていますし、他の方へのお勧めの中でも味あわせてもらっています。
「罪悪がしれる・しれない」というところに留まるのではなく、そこはすでに「見透かされている」というところでもハッキリしています。
そこをさらに深めて「廃立」をごまかさない聞き方…
これが抜けると、「普段の生活ではお念仏もでない、あぁ凡夫丸出しのやつだなぁ」と自力を捨てた気になり、「だからありがたいよなぁ」と他力任せを軽く受け止めてしまう…
これは怖いことですね。
ちょっと、原点に戻らせていただくご縁でした。
前半は来月にある「聞法旅行」に関わる打ち合わせ。
しかし、私は参加できないので、ちょっと話題的に蚊帳の外。
その「蚊帳の外」感を巡って、わたしの中で微妙な感情が揺れ動いたりします。
でも、ただ単にその微妙な感情を引きずりかねなかったのが、昨日あったミニカンでそのことをクライエントとして話しする機会があり、今は納まるところに収まっている感じです。
まぁ、そんな動きがあったということで…
(この辺の感覚を言語化しようとすると、かなりいろんなものが絡まってきますから、取り掛かるときはじっくりと取り掛かるしかないですね)
つづいて、テキストの羽栗先生著の「心身の革命」の輪読です。
不参加だった間にかなり進んでおり、ほとんど最後のまとめに入ってきています。
「罪悪」ということをめぐって、本文に関わること、それぞれの味わうところを出し合って進んで行きます。
たんなる知識の学習会ではなく、普段の法座で現れるところを共有しながらの研鑽は、他では得がたいものがあります。
これが一人で読んでいるだけだと、違和感を感じるところがあっても、そこを深めることをせずに、「偉い先生が書かれていることだから」と収めてしまうかもしれません。
しかし、「腑に落ちないところがあるならば、それをはっきり出して確かめる」という座談をしている集まりですから、そこに出てくる話をもとに、自分の領解をハッキリさせていきます。
すると見えてくるもの…そこには普段華光で聞かせていただいている”要”が浮き上がってきます。
罪悪感ではなく罪悪観が問題になって来るということ。
そこには「罪悪を見つめる」に留まらず、そこをめぐって自身のなかでうごめくところに「廃立」をしっかりしていくことがハッキリしてきます。
先日の支部法座で、先生から「お叱り」を受けたという話を書きましたが、今回参加したくなった背景には、その日のことが先生の口からなにか聞かせて貰えるのじゃないかというものがありました。
しかし、この”要”の部分を聞かせてもらうにつけ、そういうこだわりの部分に見切りをつけ始めている私がいます。
「本願のこころ」にふれるということで、知識じゃなく身に応えるところで聞くことは、普段からハッキリしていますし、他の方へのお勧めの中でも味あわせてもらっています。
「罪悪がしれる・しれない」というところに留まるのではなく、そこはすでに「見透かされている」というところでもハッキリしています。
そこをさらに深めて「廃立」をごまかさない聞き方…
これが抜けると、「普段の生活ではお念仏もでない、あぁ凡夫丸出しのやつだなぁ」と自力を捨てた気になり、「だからありがたいよなぁ」と他力任せを軽く受け止めてしまう…
これは怖いことですね。
ちょっと、原点に戻らせていただくご縁でした。