コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

感情の様子を尋ねる 第6回真宗カウンセリングWS-2

2009-08-26 00:00:30 | コミュニケーションワーク
今日も先のワークショップでの話題から。

そのワークの時間は、仏法のことをめぐって話が進んでいた。
頭でうけとめ、なかなか進まない…
でも、本人はひとつひとつ理解していかないと先に進めない。
お勧めする側と受ける側がぐるぐる同じところをめぐっている。

ひとつのことを「聞いてもらえた?」と確認すると、「これこれこういうことを聞かせてもらいました」と。
しかし、それが頭の理解としか思えないと、問う側もどう伝えればいいかとうなってしまう。
問われる側は、これじゃまだ理解が足りないと思うのか、理解したと言う事が上手く伝えられていないと思うのか、次々と理解を補足して理論武装を強固にしていく。

そんなとき、「どういう気持ちが流れているんだろう」と言う事が気になる。
今回は、ちょっと合間を見て尋ねてみた。
「もし、言葉を重ねているときになにかの感情が湧き出てきたら、ちょっとそれを言葉にしてみてください」

結果としては、少し感情の言葉が出てきても、その感情を説明しだして、感情よりも知識や理解に流れていってしまう。
でも、一度そういう確認をさせてもらってからは、本人も気付かないところで感情の言葉が表に出だしてきた。
感情といっても、なにも激興したり、泣き叫んだりすることではない。
「ちょっとしんどい」とか「悲しい感じ」とか、そういった類のもの。
このときの関わりではここまでの言葉にもならなかったけど、「モヤモヤ」だとかそういう言葉になって現れていた。

ミニカウンセリングを実践させてもらううちに、話し手のトピックのことより、そういうトピックを話しているときに現れる感情の言葉に敏感になっている。
そういう言葉に触れることで、そこにいる方が鮮明になり、存在が感じられる。
逆に、どれだけ饒舌な言葉を並べても、理屈だけだとそこにその人が見えない。

思えばわたしもずいぶん理屈・理解・分析によって、多くの言葉を並べてきた。
自分のことをわかってもらうと思えば思うほど、言葉を重ね続け、自分でも言いたい事がわからなくなってくる。
それでも、言葉を重ねることを止められない。
そんなとき
「わかってほしい」
「伝わらなくてさびしい」
なんていう短い言葉のほうが、よっぽど多くの事が伝わる。

法座でも、しつこいように「それでどんな感じ?」と尋ねる事があるが、とても大事なことだなと。

もちろん、その感情を口にした瞬間、また違う感情に変わっていることもあるが、それでいい。
そんなことはお見通しで、口にしたことを自分の耳でもう一度味わってみる事が出来れば、そこに意味がある。


今回、この場面で感情の確認をさせてもらったときに、別の方から「感じを尋ねてもらって、すごく自分のことを気にかけてもらっている感じがした」というようなことを言っていただけた。
「こうしたら、ああしたら」と押していっても聞けないときに、ちょっと自分を振り返ってもらうためにも、大事なことだったんだと。

日がたって少しその場の正確な描写が出来なくなっているが、まぁ、わたしの受け取りを記すブログなんでご容赦を。